不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

今の心

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100609-00000000-spa-ent

多分こういう病気は現代人のコミュニケーション能力や神経の太さによるものなのだと思います。この手の病気は自意識過剰から来るものでしょう。自己防衛が過剰になるあまり、昔だったら何でもないことが、現代ではとても嫌なことになったりします。逆に嫌なことをする側も昔だったらあり得ないようなレベルまでエスカレートするのも、やはり自意識過剰から来るものだと思います。

えらそうなことを言って恐縮ですが、私もこれの経験者です。今振り返ってみて、このように思いました。幸い私にはよく理解してくれている多くの友人がいて、指南してくれる師たちがいたので地獄に足を突っ込まずに済みました。鬱病の一歩手前、鬱症状が強く出ていました。地獄の釜を覗いた気分でした。今でも冷や汗が出ます。

社会全体が間違った方向に向いているとき、それが間違っているとはなかなか気付きません。何と言っても周囲と同じことをしていれば間違いないのですから、同じことをして、同じことを考えているのに体調がおかしくなってきたら誰でも途方に暮れます。「社会全体が病んでいる」と言うのは簡単ですが、全体が病んでいたらどうやってそれが分かるのか。

山の斜面の木々に例えます。大地が傾いているのか木が傾いているのか。どちらがよくないのか、それが気になりすぎると(あ、偶然ダジャレになってしまいました。本当に偶然です)病になります。でも問題はそこにはありません。どちらがおかしいかという相対的な問題ではなく、それがそこにあるという絶対的な視点だと思います。木は木のままであり山は山のままでそれはそこにあるだけ。それだけです。隣の平地の木は平らなところから生えているとか、隣の山の木は傾いていないとか言っても全く意味がありません。その木はその木以外にはなれないからです。

インターネットが普及すると「こういう事もできたんだ」「こういう生き方もありなんだ」「こういうものもあるんだ」という類の情報が津波のように襲ってきます。しかし魅惑的ではあっても果たしてその中のどれだけが自分に役立つのか。(禅宗的にはそれらは全く以て雑念の類と一笑に付されますが、私は人間である限りある程度はそういう視点は重要だと思います)本然の自分であり尽す、本然の自分になり尽す、これに尽きるように思います。

いつも思うのですが、物質の豊かさと精神の豊かさが両立しにくいのと同様に、情報の多さと幸福度も両立できにくいものなのかと思います。もっともそれならいつぐらいの時代が良かったのかとなると、それはまた幻想に過ぎません。私たちは今しか生きていないのですから。この辺り本当に難しい問題だと思います。ただ情報の多さに負けず、本来の自分を打ち建てられるといいですね。

SD100610 碧洲齋