不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

不立文字のこと

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これら四カ条は禅宗における最も重要な教義だと言われています。 一カ条ずつ紹介されることもありますが、一つ目と二つ目、三つ目と四つ目の組み合わせの方がより分かりやすいとのことです。 「不立文字」と言っているそばから言葉で説明しようと試みる様は何とも滑稽ではありますが、私なりの浅慮をしばしお許し下さい。 別段、禅宗に限ったことではありません。日常的な仕事、生活、趣味にしても文字では伝えられない妙が必ずあると思います。我々人間は文字言句を自在に操れるが故に事実と相違がある、という事象に向き合わねばなりません。柔らかく丸い事実を文字言句という四角い鉄の枠で型抜きをしてしまい、結果、事実はもとよりその真実まで殺してしまいかねません。文字言句がある故に嘘偽りがあり、超自然現象という言葉が発生します。もとより動物たちには嘘偽りは存在しませんし、故に超自然現象なるものも認識できません。人間に飼われている動物などは多少違うのかも知れませんが・・・。 文字言句がない世界にあって、何かを継承するというというのはどういう事でしょうか。野生の動物の親が子供たちに生きる術を教えていく様そのもののような気がします。文字言句があれば世代をまたいで何千年も後の世の何万人にも伝えることができますが、文字言句なしでは世代を超えて教えることができません。しかも一度に教えられる人数も極めて限られたものです。しかし禅宗でもよく言われるように、不立文字、教外別伝では器から器へ、水を一滴も漏らさずして確実に伝えることができます。文字のように曲解、誤解の類が存在しません。思うに事実と文字言句のずれに人の妄想や空想、雑念の類が発生する根源にもなっているように思えます。事実と文字言句の一致作業、不一致に人間が苦しんでいると言ったら言い過ぎでしょうか。本来、特に技の伝承はこのように不立文字的であるべきだと思ってはいるのですが、禅という思想においてもこのように継承されている様を見ていると無関心ではいられません。 何かで聞いた話ですが、「心(こころ)」の語源は玉か何かがころころ転がる様から来ているのだそうです。なかなか言い得て妙な気がします。私は動物にもちゃんと心はあると思っていますが、「直指人心」とわざわざ人を付けているところをみると、元来、仏教では人も動物も峻別しなかったのではないでしょうか。人の心は動物の心とは違います。文字言句を知ってしまった心は文字言句の意味と事実の間で文字通り、自然に反してころころ転がり続けているのだと思います。人は心について間違った認識をしているように感じ始めました。あくまで私個人の意見ですが。欲望に駆られる、と言いますが、私は心はそのままだと思っています。ころころと欲望の方に転がってはいますが、心が欲望そのものではありません。心は欲望に接しているので無関係でありえず、しかし心はそのまま、ましてや真っ黒になったり真っ白であったりしているわけではないと思っています。その証拠に記録に残る高僧が猫をバッサリ切り捨てたり、仏像を薪に使ったり、人を殺し尽くしたと言ったり、女や酒、肉食を厭わなかったりしています。(これらがいいことだとはもちろん思っていませんが、今は別の論点で述べていると思って下さい)多分、彼らはどこに転がっているのか、ではなく「心そのもの」を問題にしていたのではないかと思っています。そしてその問いの果てに仏性というものがあると言いたかったような気がします。 が、ともあれエラそうにとやかく言う前にもっとよく坐ってみようと思います。 特に禅をされている方々へ、長い駄文、大変失礼いたしました。 SD091225 碧洲齋