不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

観察すること

昔は全ての芸事、技能職は「先輩から技を盗め」という覚え方でした。

手取り足取り教えてくれるような先輩はいませんでした。

先輩たちは高等技術は滅多に新入りには見せなかったですし、新入りは千載一遇のチャンスは石にかじりついてもものにしていた、そういう鎬を削るようなやり取りだったと想像します。

一歩譲って親切な先輩でも喜んで見せてもやはり手取り足取り教えるようなことはなかっただろうと想像します。

教育という観点から見ればこれは結構効率が悪いと言えます。

「カリキュラムを組んで教えるための技術」というものはあくまで付属品、お菓子のオマケ程度でした。

技術継承や芸事の継承は概してそのように行われてきました。

とても効率は良くなかったと想像します。特に欧米の教育システムと比較すると唖然とするぐらいのシロモノだったと思います。

この教え方はある一つの技能を磨くためだけに肯定されるべきだと考えます。

それは「観察力」。思うに昔の人の観察力たるや、現代人とは比較にならなかったと想像します。録画機器はありません。良くて紙筆程度です。その代わり、現代人と較べて日常に流通する情報量は数十分の一に過ぎず、多分一つ一つの事柄についてじっくり考えることができたと想像します。しかも各自の仕事は今ほどに複雑ではなく、単純な仕事が多い人が大半を占めていました。

そういう環境下では所謂匠の技を磨くには大変良い環境と言えます。禅でも単純作業中に悟りを開いた僧侶がいます。

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観察力を養うという意味に於いては現代は最悪です。あらゆる種類の大変便利な記録機器、記録媒体、再生方法があり、「後でも」「いつでも」「どんな速さでも」「何度も」見返すことができます。

そういう環境下では人間が本来持つ、野生動物とさしたる違いはなかったはずの観察力、洞察力が減衰するはずです。特に機器で何度も同じものを見るという行為は「単純にそれのコピーをする」ことになりかねません。

実際、完全コピーを学ぶと勘違いしている人が多いようにも思いますが、感性も体格も経験も全部違う個体がたった一つの例を完全コピーしようとすれば必ずどこかで破綻します。そういう意味で同じものを繰り返し見るという行為はある意味危険とも言えます。

幸い当流では一般的な古流とは大幅に違って、毎回違うことをやることが多く、しかも変化技も多い。従って門下生は一挙手一投足をガン見して必死に覚えるという作業が多いので、門下生は比較的ぱっと見てぱっとできる人が多いかも知れません。それでもまだ、私的には十分ではないと思うのはあまりに理想が高いのかどうか。かなり柔軟性はあるとは思います。

観察力というものは表記言語がなかった時代の人類にとって、大変重要な武器だったと想像します。のみならず人間以外の動物にとってもこれがあるかないかで個体の生存が左右されます。つまりすべての動物にとって観察力は生存するためには必須なのです。現代社会はその希少な能力を減衰させてしまっていると言えます。

昨今、刑事もの、探偵もののドラマが良く流行っています。刑事や探偵のずば抜けた観察力や洞察力、推理力に魅了されますが、もしかしたら喪失しつつある我々の本能が警鐘を鳴らしているのではないかと思ったりします。

よく観る、もう一度見直してみては如何でしょうか。

平成三十年水無月十二日

不動庵 碧洲齋