不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

我思う、ゆえに我あり

これは説明するまでもありませんが、これは近代哲学の基礎を築いたフランスの哲学者、ルネ・デカルトが発した命題です。

Wikiの簡潔な解説ですが、ざっくり言うとこうなります。

「一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。」

「鏡」ですが、19世紀に入ってフォン・リービッヒという方が現在のものとほぼ同じ製法の鏡を開発して量産されるまでは結構な高級品だったと言われています。日本の三種の神器の一つも鏡であることからも分かると思います。時代劇でも貧しい家の娘さんがイケメンの若いお武家に恋心を抱いてちょっと化粧をしようにも顔の一部しか映らない小さな鏡で口紅を付けたり、池端にかがんで素顔を見たりと、そんなところからも窺えると思います。これは洋の東西を問わず同じだったようです。

我思う、ゆえに我あり」が提唱されたのは17世紀頃、割に誰でも自分の素顔をハッキリと見られるようになったのは19世紀、手軽に自画像を写真で撮影できるようになったのは20世紀。逆に言えば日本では江戸時代までは個人の自由、個人の権利、個人の認識という概念はかなり希薄だったものと想像します。日本では大正時代から自由民権運動が盛んになり、戦後から米国流の個人主義が台頭してきました。

基督教では「無償の愛」を至高の行為としています。禅仏教でも「我」の排除を修行では重要視しますし、それさえなければ「悟り」に近いと考えられています。自我の認識が天地宇宙との融合を邪魔立てしているという考え。何か事を為すに当って自分のことを勘定に入れさえしなければ驚くほど全てうまく行く、とよく私の師匠は言います。自分がいるという錯覚を正す、自分が存在しているという幻想を排除する、もしくは「本当の自分」は100年生きられるかどうかの肉体に宿るものではなく、それは「本当の自分」のごくごく一部、一端でしかないと気付くこと、これが要だそうです。

人の目は対象を余すところなく見ることができますが、天地宇宙の中で自らのみは見ることができません。他人の背中を見ることができても、自分の背中は見られません。自分の寝姿を見ることはできませんが、その「寝る」ことはできます。自分の死に顔を見ることはできませんが、その「死」になることはできます。

これも師匠の受け売りですが、人は他人に対しては「する」ことしかできなく、自分に対しては「なる」ことしかできない。だから自他を比較するのは例えば重さと高さを比較するほどに違う概念を比較するような、意味の無いことと言っていました。

画像

昨日、商用で東京駅まで行きました。駅前工事が完了したばかりで大変美しい仕上がりになっていました。戦前の東京駅を彷彿とします。言うまでもなく写真を撮っている人も多かった。

で、所要のあるビルまで歩く間、何人か目に付きました。いわゆる「自撮り」をしている方々です。何度も取り直しているところを見ると「インスタ映え」を狙ってのことだと想像します。日本人と外国人(もちろんアジア人が大半)半々ぐらいでしょうか。別に他の方の邪魔になっていたわけではありませんし、マナーが悪かったわけでもなく。ただとても印象に残りました。

21世紀に入ってからITが驚異的に発展して、今やカメラ機能を持ち歩いていない人を探すのがほぼ不可能なくらい、自己認識が容易になってきました。「自撮り」もSNSInstagram」にどれだけ美しく綺麗に映えるか競われます。過去の人類史に全くなかったほどに自分自身を目にする機会が増えました。特に自撮りは誰か他の人に頼まず、気軽に自分で自分を撮影することができます。精神衛生上、こういうのはどうなんだろうといつも思ったりしています。悪い意味で社会がナルシシズムに陥らねばよいと思ったりもします。ナルシシズムは多分、「なる」対象と「する」対象が入れ違ってしまった故に起こる精神的歪みだと思います。そういう意味ではよく原始的な部族がカメラを見て「写真を撮られると魂を抜かれる」というのは正しいことになります(笑)

このような時代ですから「自撮り」の全部が悪いとは全く思いません。私は滅多にしませんが、まれにしますし、誰にも頼めないときなどは良い方法だと思います。ただこれが毎日何度も行うような頻繁さで行われて、自分で自分の姿を日常的に認識してネットにあげることが果たして健全なのかどうか、最近気になるところではあります。心の健全さは目視できず、計測も不可能なだけに心の声を素直に聞きたいところです。

平成二十九年臘月二十一日

不動庵 碧洲齋