不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

偏ると言うこと

私の禅の修行がどうにも気にくわないという手合いがいて困っています(笑)

修行が進んでいるから反発が強くなるのか、私の方法が悪いのか。

それとも禅仏教がきらいなのかな?仏教とか基督教とか、宗教全てが嫌いなのかも知れない。

挙げ句に掛塔者が「社会生活不適合者の集団」とか「遁世希望者」とか言っているのだから参る。

禅は外界に無関心になって自己の殻に閉じこもるための邪教だなんて言っていたし。

あんた一昔前の共産党かって思わず尋ねてみたくなった(苦笑)

僧堂がそんな楽だったら今頃どの僧堂も大繁盛していると思います。

だいたい、そもそもその手合いさんとて何年も茶道をしているのだから無関係ではあるまいに・・・とツッコまずにはいられない(苦笑)

修行僧が聞いたら噴飯モノですが、私なんかは怒りを遥かに通り越しておかしかった(笑)

無知は怖いな、とか千利休にそれ言ってみたらとか想いを馳せて。

ここまで偏見が進むとサイコパスなんじゃないかと思うくらい。

時々その人には偏執狂的な狂気を感じるのでそういうとき(こそ!)心を虚無にしてきれいに流し去ります。

まともに請け合わないし反論もせず。さりとて無視という意志も見せず。(無視なんて態度を見せたら大変です)

私の心もわだかまりを残さないので、もしかしたらそれが最も気にくわないのかも知れません。

でもそういうのが蓄積すると心の病気が起きますから。

歯を磨かないと虫歯になるのと同じです。トイレに行かないと膀胱炎になるのと同じ、多分。

自分で溜めているとか言っていたこともあるので「漏れる前にトイレにでも行けば」とギャグでも噛ましてやろうかと思ったこともあります。

固執し偏執する、ということの恐ろしさをその手合いからよく学びます。

普通に怖く感じます。偏見でものを見て偏執し、それに固執する。

普段から不平、不満、ケチ、愚痴、皮肉、文句ばかり言っている気がします。

私に対してなどは気分次第でいつも注意や警告の数がぐっと増えますが、それもまたツッコミどころ満載で、ルカの福音書ではありませんが「自分の目にある梁は見ないでいて、あなたの目にある塵を取らせてください、と言えようか。先ず自分の目から梁を取り除けるるがよい」です。大抵は詮無きレベルなので心を無にして黙殺します。

見えてないから偏るのでしょうか。

一応、機嫌がいいときは何事もなかったかのように接しますよ、私は流し去っているので。

禅を知る前の自分をハッキリと観ることができます。

恥を忍んで言いますが、とても偏っていました。怖いぐらいに何かに固執していたようにも思います。

だから心の中にゴミがたくさん蓄積して、せっかく武道で養った忍耐力や精神力をも蝕むほどだったように思います。

禅を行ずるようになってからは大抵のことは水洗トイレの如く、サラリと流せるようになったものです。

昔はいつまでも引きずって、我ながら本当に嫌な奴だと思っていたものですが、禅を知ってからは大抵のことは流し去ることができ、今は本当に平安の中にいる感じです・・・多少大げさに言えば(笑) 嫌なこと、面倒なことですらいい稽古台ぐらいに思えるようになっています。心にゆとりができるのかな。

心にゆとりがないから固執し偏執する、そんな気がします。

聖徳太子が「和を以て貴しと為す」とか言っていましたが、「和」は原義では穀物を口にすること。

腹一杯に食べてよく寝れば、大抵のことは流せるものだと思いますが、それでも流せない場合は自分の精神を疑った方がいいですね。

心の視覚狭窄を自覚したら私は坐禅をしたり稽古をしたりスナックを食べたり、そうでなかったらどこかに出掛けるようにします。そうしてもわだかまることはあまりありません。精進したなと思うときです(笑)

溜めに溜めて自分で「溜まっている」なんて放言するようになってしまったら最後じゃないかと思います。

禅の師匠曰く、世の中の97%は「流せる」事だそうです。私もそんな気がします。

大河の如く泰然とした流れには至りませんが、市内を流れる綾瀬川よりはマシになってきた気がします(笑) これから江戸川や利根川目指して武芸や禅を精進して参りたいと思います。

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平成二十八年師走二十六日

不動庵 碧洲齋