不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

正師逢見ということ

昨日は息子と庭で伐採した枝葉の残りを袋詰めしていました。

たまたま師匠と弟子の話に及んだとき、私が言いました。

「良い師に出会えるというのは時には人智の及ばない神の領域であることがある。どんなに良師を渇望していても巡り会えない人は多い。ただ言えることは良師に巡り会うことができる人は決まって志の高い人だ。」

息子は少なからぬ衝撃を受けたようです。

「え?本当?」

「ああ、出会った師は必ず、自分の志相応の師でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。高い志を持つ者は優れた師しか見えない。低い志を持つ者は優れた師は見えない。だから自分相応の師だけが現れる。低い志なのに素晴らしい師が現れるのはドラマの世界だけだ。」

「・・・」

息子にはとある伝統芸能を学んでいる知り合いがいるようです。

その人はよく自分の師匠の欠点をあげつらったり、人格をよく批評するそうです。

私の師事する姿勢と比較していつも思うところがあったようです。

「門下に入ってなお、師の悪口を言うような志を持つ人は、恐らくその師はその程度の者だと思う。その程度の者しか門下にいないのかも知れない。」

聞くところによるとその人は入門に際して稽古環境や条件の良さで決めたとか。

武道を学ぶ際、大きい道場や素晴らしい武器をたくさん持っている、近所に住む先生なら誰でもいいのか?

息子は恐れおののいた様子で強く否定しました。

「一端入門したら師匠には絶対服従である。故に入門前には十二分に吟味すべし。抑も欠点のない人などいない。」

私自身、師匠たちに欠点があることは認めますが、多分それ以上に自分には欠点があります。それを評することは自らの品位を落とします。1万歩譲って若い頃ならともかく、而立不惑でそんなことをしていたら門人としては失格です。それが師事する人の心得だと併せて息子に言いました。

私自身、高い志を持っているのかどうか分かりませんが、人としてそのようであろうと努力はしています。結果(かどうか分かりませんが)、武芸においても禅においても複数名のなかなか得がたい師に教えを請うことができました。一人に出会うことですらかなり難しい命題であることを考えると大変恵まれていると毎回感謝しています。

高き志を持ち、徳を磨く行いに弛まず、慎み礼を尽せば必ず良師に出逢うことはかなうと息子には言いました。それが学校の先生なのか、芸道の師匠なのか分かりませんが、そういう巡り合わせはすべて自分の行いのうちにあると言っておきました。

息子ならきっと、得がたい師に出会うこともあるでしょう。私はそう信じています。

平成二十八年睦月十日

不動庵 碧洲齋