不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

決まり事について思うこと

私は憲法に詳しいわけではありませんが、こういう見方はできます。

大日本帝国憲法、旧帝国憲法は開国した日本が欧米列強に追いつくために近代化の指標とされた課題の1つですが、明治天皇が起稿せよと勅令を発したのが1876年9月6日。その間、良く知られているように伊藤博文以下、重鎮たちは欧州のあちこちに出掛けて自らの足で調査してきました。飛行機も電話もない時代、大変な苦労だったと思います。そして勅令が発せられてから実際に発布されたのが1889年2月11日。足掛け13年です。もちろん、今現代の視点からではこの大日本帝国憲法は不完全な者ではありますが、アジアでは初の近代憲法でしたし、半世紀以上も効果を持っていたのですからそれなりのものだったのではないかと思います。

で、その後を継いだ日本国憲法、「変えろ」と最初に口にしたのはもちろんマッカーサー、1945年10月のことでした。そして学校で勉強したので覚えている人もいると思いますが、施行されたのが1947年5月3日。2年未満で作った計算になります。昨今は民法や刑法だってもっと時間をかけて作りませんか?こういうインスタント憲法が国の誇りだったり、未来に受け継がせる価値があるとか言われるのは少々心外だなと思いますが私だけでしょうか。それを有難く半世紀以上も神の教えの如く死守するのはどうなんでしょう。所詮人が作った(しかも短期間に)ものですから。野党や野党支持者の方々はこの辺り、どのように考えているのか不思議に思います。2日で作ったものよりも半月かけて作ったものの方がずっとありがたく思うはずです。

天皇制についてはグレーゾーンで軍隊については完全に「No」としている他はごくありきたりで、逆にその辺りで日本人として誇れるような部分がいかほどあるものか。

もっと恐ろしいことがあります。施行されたのは1947年5月3日ですが、実際に完全に施行されたのは1952年4月28日です。簡単に言うと主権回復をした日です。つまり日本国憲法は主権回復しない間に作られました。あ、ちなみにそういうことでその間に作られた警察予備隊と保安隊は憲法には違反していないんじゃないかと思いますがどうなんでしょう?でも自衛隊は完全に憲法違反ですよね。自衛隊を解散させるか、憲法を変えるしかない。もうここにきて世界中で活躍する自衛隊に余計な制約は着けるのはいかがなものか。

憲法自衛隊の話しではなかったのですが、私は国家や組織が生存するに当っては憲法よりも現実を優先させるという事を言いたかっただけです。日本ですら、何よりも重要な憲法服従してはいられない場面もあると言うことです。

人は間違えることはありますし、国家も間違えることはあります。ましてや2年未満で作った即席憲法であればなおさら。中国の歴代王朝は王朝が交替してから前の王朝の歴史を書くまで30-60年ぐらいは間を置くそうです。その理由はすぐに書くと恨み辛み、血が煮えたぎる状態になって冷静に公平に書けないからだそうです。何でも頭に血が上りやすい中国人にあってはなかなか知恵のある習慣のように思います。ちなみに現在の中華人民共和国の前、清王朝の歴史、清史は概ね完成の目処が立ってきたそうですが、王朝史では初めて写真や動画なども取り入れられたため、膨大な量になったとか。要約されたものは読んでみたいところです。

昨日、規則を守るべきか、大義を守るべきかという議論が交わされました。(どこで、というのはナシ・笑)

あくまで一例ですが、AはBにてCすべからず。ただしDはBにてCしてもかまい無し、とかそんな感じです。AとDの差異は個人的にはあまりあるようには思えません。個人的には。

信義は守るべきですが、固守に過ぎればバカを見る。それはカルト集団と同じ事です。もちろんその逆、無節操も過ぎればこれまた人に非ず。

調和を取りつつ、公平無私な心を以て人の求めに応じねばならないときは、多くの他に利益ををもたらすものであれば、もしくは国家や組織がよりよくなるなら、基本法や律は守らなくても良いと考えています。それを見定める目、人徳、機は言うまでもなく常に磨くものではありますが。

超法規的、ではありませんが、先帝陛下が旧憲法では許されていた、議会にかけずに独断専行したケースはたった2回だったそうです。一つ目は2.26事件の対応、もう一つは終戦工作。それ以外は全部、開戦を含めて議会を通しています。中国では皇帝はやりたい放題ですが、日本では近代においても立憲君主を貫いています。そういうことでやはり全て規則を守ることが最善ではないことが分かります。もちろんそれ故に、ギリギリまでは断固として定められたことを守るべきだという大前提があります。

国民総出で、国家を妄信することは専制君主国家では理想ですが、民主主義国家では絶対にあってはならないことです。それ故の何重にも定められた規制なのです。それでも国家が暴走するようなら、その時は国民は国家に反逆してもよいということです。これは国家だけではなくどの組織にも言えることです。(国家以下ならその組織から出るという選択もありますが)いずれにしても構成員が妄信することほど、組織を腐敗、硬直、衰退させるものはないと言うことは歴史が証明しています。

「上意下達」「余はそのような話し聞きとうない」これがお定まりになったらその国家は間違いなく終わりです。人は必ず何らかの組織に1つならず組しています。故に社会と言われます。簡単に抜け出せることはあってもそれは解決にならぬ事もあり。よりよくするには常に個々で磨き積極的に出る必要もときにはあるのではないかと思うのでした。

長い割にはあまりまとまりがないな。

平成二十七年葉月二十七日

不動庵 碧洲齋