不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

70年目の終戦記念日

久し振りに8月15日の靖国神社に行きました。

今時はごく普通の人々の参拝が多く、保守系の宣伝も普通の市民たちが多かったのが驚きでした。

とても礼儀正しい若い女性も多くいました。

とはいえこの人の多さ、不安な世相を反映しているのか、節目故に戦争で亡くなった人たちを偲ぶ機会だったのか。

靖国の英霊たちはすでに一度つとめを果たしました。

天国というのか極楽というのか、あの世から、娑婆の世界でいろいろな方向に熱狂的になっている私たちを見てどう思っているのか。

私たちは日本がこの70年間戦争を回避してこられたことを感謝しつつ報告する。

戦争で果敢にも散ってくれたお陰で今あることを感謝する。

あなた方の子孫はこのように繁栄していることを知らせる。

そういうものだと思っているのですが、神聖な境内やその周辺で特定の国家を口撃したり、政治的主義主張のためにまた持ち上げられることは心外というか、御霊の喜ぶところではないのかなと思います。主義主張は間違っていないし世界に対して主張すべきだと思いますが、できたら違うところでして欲しかった。

この暑い中、参拝のために並んで待っていると息子がぽつりと言いました。

「毎日家で感謝を込めて祈って正しく生きていれば、わざわざ特別な日に神社に来てお祈りはしなくてもいいと思うんだけど。」

個人的にはこの考えは神道の日本人のものの考え方のベースになっていると考えます。さすがだなと感心しきり。息子は何かの記念日にわーっと神社や寺に来てその雰囲気に飲まれて祈ったりするのが好きではないと言うことのようでした。毎日ちゃんと生きて、先祖たちに感謝をしていればそれで十分とのこと。

日々使うもの、する事、起きることと共に先祖に感謝をして日々の生活を徹底する。本来日本人はこれをしてきました。イベントタイプの礼拝が欧米なら、デイリータクスタイプの祈念が日本です。

特別な時間や労力を割いて参拝するのではなく、そういう感謝の念を持って日々を善く生きる。これの積み重ねの上に神社や寺への参拝があると思っています。逆に言えば日本の場合は日々は適当に生きていながら、特別な日だけいきり立っても全く意味がないと言うこと。

安全は日本だけで成し得ることがありますが、平和は世界全部の国でしか成し得ません。そういう意味では世界は全く平和ではありません。幾つかの国が安全なだけです。そして先進国では最も平和を希求していると思われる日本ですら、強力な軍事力もそれをサポートしている事実。もちろん日本人の資質や経済力も大変力を持っていますが・・・。

世界が日本人のようなものの考え方をすればどれだけ無意味な対立を減らせるか。私が最近、海外の友人たちに強調しているのはharmony=和です。どちらが正しいとかどちらがよりよいではなく、自然のシステムのような全てのものが役割を持ちそして調和している、人類も自然に習う、これだけが世界を平和に導けると思っています。その途上で一時的に軍事力や大国の経済力も必要になってくるかも知れませんが、それらはあくまで道具、メインは人の誠意であって欲しいと思います。馬鹿げていると思いますか?しかしかの東郷平八郎元帥もこのように言っています。

「遇直と笑わるるとも、終局の勝利は必ず誠実な者に帰すべし。」

アニメやドラマみたいに3倍の敵艦隊を完全撃破した張本人が言った言葉です。私はこの言葉を信じます。

私の母方の祖父はサイパン増援途中、勤務していた輸送船は米国潜水艦によって撃沈されました。

祖父は普通の市井の人です。、死ぬまで残された家族を想ったでしょう。

今孫たる私は米国はもちろんのこと、世界の多くの国に友人がいます。そして日々日本人のものの考え方を伝えています。米国の友人や露国の友人は私の仲介した同じ神社で祈祷を受けました。息子はもっと国際的な人間になるでしょう。これは多分、祖父の御霊を安んじるに十分だという確信があります。こういう自分ができるところから平和の芽を育む行為こそが靖国の御霊を喜ばせると思います。

70年前の「敵」がどうだったかではありません、70年後の有志を想いましょう。

遠い世界の理不尽さに義憤を持つより、今自分がここで為すべき事を完遂しましょう。

今敵対する相手を罵り叩くより、彼らを正す努力をしましょう。

そういう崇高な祈念を日々の行為に溶け込ませる、その成果はやがて盤石なものとなって現れますし、それこそが日本人の精華であると信じています。

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平成二十七年葉月十五日 終戦記念日

不動庵 碧洲齋