不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

日本語辞書の想い出

先日息子がオーストラリアにホームステイに2週間ほど行きました。

いろいろ大変なことがあったようですが大変素晴らしい経験をしたようです。

帰国した息子の顔には自信が滲み出ていました。

ホストファミリーの長女は丁度30歳、私が初めて彼女と会ったのは10歳でした。

やれやれ、時間の流れというのは無常観が漂いますな。

なかなか意思疎通が難しかったようですが、彼女は昔私がプレゼントした日本語辞書を駆使して乗り切ったようです。

まさかその日本語辞書が自分の息子がやって来るときに活用されるとはそれこそ夢にも思いませんでした。

4回目にオーストラリアに行ったときは新婚旅行の時。

彼女が高校1年生の時です。

その時彼女は外国語として日本語を選択していました。

日本語教師としてオーストラリアに1年半ほどいた私としてはこれはなかなか嬉しいことでした。

ただ彼女が使っていた日本語辞書がいささか心許なかったので、私はわざわざメルボルン中心にある外国語専門店に行き、一番グレードの高い日本語辞書を買ってやりました。

日本語教師の視点からもなかなかよいものだったと記憶しています。

彼女には親しい友人がいました。同じ日本語クラスのクラスメートのようでした。

実は彼女は欧州のとある国から難民認定を受けた家族です。

彼女の国では大規模な紛争があり、多くの人が殺害されました。

悲しいことに今でもそれは断続的に続いているようです。

彼女のお父さんは家族の目の前で銃で頭を打ち抜かれて殺され、親族の多くもその前後に殺されたそうです。その後、亡くなったお父さんのつてを頼りに着の身着のままでオーストラリアまで逃げ延びてきたとのことです。オーストラリアにはこのような難民家族が大勢います。

私がホストファミリーの長女に日本語辞書を買ってやったときに難民の彼女もそれを見ていました。内容の素晴らしさに息を呑んでいましたが、裏に書かれた金額を見てため息をついていたのを私は見ていました。彼女にはまず手の届かない額だったようです。かなり高額に映ったのか、少し泣きそうな顔をしていました。

私がオーストラリアの小学校で日本語を教えていたとき、高学年生徒たちがキャンプに行くので付いていきました。真夏なので暑く、子供たちはこづかいを握りしめてかき氷やアイス、ジュースを買っていたのですが、2.3人の子供はそういうものを買わない子供たちがいました。経済的に苦しい家庭の子供なのですが、難民の子供もいます。私はさりげなくその子たちにもかき氷を買ってやりましたが、この経済的な格差にはどうにかならないものかと思ったものです。もちろんオーストラリア政府は難民受入には大変積極的ですが、難民たちの生活状況は決してよいものではありません。

そういう子供に限って私と仲が良いことが多く、余計に心苦しいものがありました。

帰国する少し前に私はその難民の女の子にホストファミリーの長女に買ってやったのと同じ日本語辞書を買ってやりました。まさかそんな高価なものが貰えるとは思ってもいなかったらしく、これまた泣きそうになるくらいに喜んでいました。ぎゅっと大事に抱きしめるほど嬉しかったようです。

私はその辞書を開き、和英の部分でかなり最後の方を開いて見せました。

ある単語に線を引いて置いたからです。その単語は

「わ/和」:sum, peace, harmony, Japan, Japanese.

です。しばらく彼女はとても不思議そうにその単語を見つめていました。

私は今までで一番、うまく日本と日本人のものの考え方を伝えられたケースだと思っています。

今でも彼女は日本語を使っているのか、時々思い出します。

相手が武装したらこちらも武装する、その考え方は同じ土俵では状況こそ維持できますが、良くはなりません。冷戦時代のようなことの繰り返しです。私は決して今の自衛隊を否定しているわけでもありませんし、自衛隊の規模拡張に反対もしません。特に今はそうせざるを得ない状況のようにも思います。

しかし元来、日本人の精髄、日本人が日本人たる所以はそんなものではないはずです。

日本人たらしめているのはもっと崇高でもっと高貴なものです。

日本人の誰も語らない、誰も省察しない、もしかしたら誰も意識していないかも知れない、そういう奥底深いところにある、それではないかと思っています。

根拠のない愛国主義や祖国礼賛、日本になびかぬものを感情的に口汚く徹底批判する、これは愚か者の行為であって日本人本来の行いではないと信じます。

日本に害意を持つ国にすら、粛々と丁寧に畳みかける、本物の日本人ならそうします。そういう友人もいます。

世界一古い国家です。他の追従を許さぬ何か深い理由が必ずあります。それは安っぽい愛国運動でも啓蒙活動でもなく。神社や寺の奥深いところにあるものでもなく、私たち日本人の何気なく行っている日常生活に染みついた何か、です。私は外国にもいましたし、今を以て外国人たちとの交流を持っていますので、それあることはハッキリ分かります。時々その一面、微片を英語で言ってみるものの、これはなかなか難しい。言葉ではないから。

誇り高き日本人であろうとしています。

いつも難しいと思っています。

しかしそれは武道のような伝統芸能を継承していたり、愛国精神を発揚したりするようなものではありません。他の国ではその程度であることが多いかもしれませんが、日本はそういうレベルでは決してありません。

このところメディアではその日本人の高尚さにつまらぬ瑕疵をつけるようなことを散見しますが、それはごく一部であって欲しいと願います。

世界の人たちが日本の何に深い敬意を持つのか、何に畏れ入るのか、今一度よくよく想い、日本人として恥じない言動を慎み行いたいところです。

秩父巡礼にて

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平成二十七年葉月七日

不動庵 碧洲齋