不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

こころ

画像

どうにもならないことをどうにかしようとするから苦しみが生まれる、とよく禅の師匠が口にします。

どうにもならないこと、の定義ですが、大抵は「自分のものさしで世の中を計ろうとすること」です。自分のものさし、とは、例えばこんな感じです。

自分の価値基準

自分の経験基準

自分の損得基準

自分の快/不快基準

などなど

自分の基準が世間一般と大きなズレはないと妄想するから、僅かな違いに不快を覚えたり、大きなズレに悩ませたりします。そのズレは実はかなり多い。

実際は多分、思っている以上に「自分の基準」は他と違っている、というのが実情ではないでしょうか。

そう考えると、実は我々が妄想するほどには「どうにもならないこと」を「何とかしよう」という苦しみの種は少ないと考えます。

日常社会生活に影響が及ばない細かいことや過ぎてしまったこと、まだ起きていない未来、ネット社会になってからは地球の裏側のどうにもならないことにまで私たちは自分の基準と照らし合わせて心を思い煩っています。

平均を求めようとする傾向は日本人に多い。日本ではいざ知らず、世界では平均ほど当てにならない基準はないと考えます。

例えば日本の平均所得と米国の平均所得、多分全然意味がない。理由は簡単で米国の方が貧富の差が激しいから。日本も貧富の差は拡大してきていますが、米国はその差ではない。

教育レベルにしても日中を比べてもやはり意味がない。中国政府は大都市圏の学校しかデータに入れません。それ以外があまりに低いからです。

平均の実態などはそんなものです。個人的にはそもそも平等とか公平という言葉にはうさんくささを感じます。理想論としてあるべきで、実際皆が皆そうだったらある意味社会は停滞すると思います。残酷な話しではありますが。

とりあえず他人に損害を与えるような価値判断は、戦争でもない限りは決してどこの国でも可とされません。

他人に不快と思われるような価値判断も同様です。二つ目はエチケットとかマナーとか言われるかも知れません。

自分の持っているもので物事を推し量らないというのはなかなか難しい。しかし何かを判断する場合、できるだけ上記二つのことを守れば大きく間違わないと思います。

何かするとき、自己の損得を差し挟まないで行動できるようになればよいと思っています。

自分の損得を勘定に入れずに何かできることが、ものさしで計らずして生きることではないかと思います。

禅的に「自分を空しゅうする」とか「自分を無にする」とか言われることがこれではなかろうかと思います。

確かに伝説的な経営者などの伝記を見ているとそのような人が実に多いように思います。

どうにもならないいやなことがあった場合、それを外に見るのではなく、内側に見る、とよく禅の師匠に言われます。今は意味が分かり、日常的にそのようにしています。自分のものさしを手放して自分をなるべく損得勘定に入れないようになってから、今まで過剰気味だったように思う自意識は影を潜め、思い悩むことが激減して、感情の起伏も相当穏やかになりました。・・・なったように感じます。

それでもいやなことが完全になくなるわけではありません。

いやなことは激減しても、少しは残ります。逆に言えばこれだけが本当のいやなことだと言えます。これだけ辛抱すればいいのです。ま、最後まで残った本物故に手強い相手ではあります。

ある意味、日本人に生まれてラッキーだと思うこともあります。英語ではウンザリするほど自己主張しなければなりません。英語では必ず「I, my, me, mine」を文中に散りばめねばならないので、普通の日本人なら我利我利のエゴイズムに食傷気味になります。(少なくとも私はなります)その点、日本語では極力、それが省かれますし、あまりに「私」を使うと優雅ではないし、嫌われます。もしかしたら禅的には日本語環境は「無」や「空」に近い心理状況なのかも知れません。

いやなことはなくなりませんが、それ自体、我々が思っているよりはずっと少なかった、というのが私の実感です。まあ、それでよしとしなければならないのでしょう。それを超えられるのは一部の達人かと思います。私はそれは超えたいとは思っています。

あまりまとまっていませんが、思い付くままに

平成二十七年睦月二十九日

不動庵 碧洲齋