不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

徒然なるままに

世の中には価値観が全く違う人がいる。

そういう人たちと遭遇してしまうと大抵、どちらがより正しいか、と考えてしまう。

自分の物差しと相手の物差しを比べてどちらが正しいというのもないのだろうが、例えば古くから続いている習慣にはやはりなにがしかの根拠があり、根拠がある所作や習慣は概して品格がある。

海外に行って、そういう部分をよく観察できる人は例えその国の習慣が分からなくてもやはり所作には品がある。来日した外国人同門にも日本語も知らず、習慣も知らないのに何か品の良さそうな人が時々いる。そういう方々は多分、母国の習慣に忠実であることはもちろんのこと、他国の習慣にも誠実であろうという現れではないかと思う。

ここ10年ぐらいは来日して稽古をする門下生の所作をよく観るのが趣味になった。

入口で全く礼をしなかったり、自分の持ち物が雑然としていたり、学びに来たはずなのに教えるのに忙しかったり(苦笑)、ビデオ撮りに忙しかったり。わざわざ日本に来たのに日本人と稽古しないばかりか、一緒に来た門下生や先生としか稽古しなかったり。

その逆ももちろんいる。感心するぐらい謙虚だったり、親切だったり。心技体と言われている。その人の技というものは深いところでその人の感性や正確とつながっていると思う。私の経験では性格が荒かったり、いい加減な人で本当に技術的にうまい人はほとんどいなかった。(全然いないとは言わないが)逆に性格的にいい人は伸びしろが多いように思う。

うまい下手という以前に伸びないだろうなと思う人の筆頭は段位や年数、弟子の数といったキャリアを傘にしている輩。門下だけであればよいものを、自分は社会的にも高い地位にいるのだとか言って憚らないのに至っては近寄るだけで臭い。そういう人は正直私の理解を超えている。私などは微才に過ぎるのか、何年やってもいつも不安に付きまとわれるし、本当の意味で安心したこともない。自信タラタラになったこともない。正直一度でいいからたっぷり自信を持って言ってみたい。大抵は言っているそばから不信に駆られている。欧米から来る門下の高~い段位の面々の中には大学教授よろしくもったいぶって何をか丁寧に私に稽古を付けてくれる人もいるが、個人的な感覚では段位が低く、しかし人間的にできた人の方から学ぶことの方がより多い。

これは海外に限った話しではなく、同門の日本人の中にも自分より一回り以上若くても、未だ「すごい」と素直に感心させてくれる後輩もいる。私の師は基本キャリアや段位はほとんど勘案しない教え方をしてきたが(場合によりけり)、年齢や段位、キャリアで相手を見ると学べるものも学べなくなる。

もちろん段位が高かったら、先生が伝えたいと思っている深い部分を察しなければならない。受けの仕方も多分違うはず。何がどう違うのか、何故違うのかをもちゃんと把握せねばならないのが高段者の務めでもある。

私はよほど頼まれない限りは師事している道場では教えない。お金を払ってきているのだから心ゆくまで学びたいというのがホンネ。私の邪魔をしないで欲しいといつも思う。ただ現実には後輩に頼まれたり、久しぶりの海外の友人と組まねばならない。そういう場合でもただでは教えない。やはり何か得られるものを鵜の目鷹の目で相手から得る。特に海外の門下生のセンスは時折「なるほど」と思うこともある。

全然オチがないが、思い付くままに。

平成二十六年皐月二十七日

不動庵 碧洲齋