不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

機微を知る

機微:表面だけでは知ることのできない、微妙な趣や事情。

小学館大辞泉」より。

携帯電話というものが日本で普及し始めたのは1995-96年頃からではなかったでしょうか。偶然にもWindows95が発売された時期と一致しています。かれこれ20年近くなります。

人間には五感が備わっており、それらをフル活用することによって、他の動物には見られない驚異的な能力を発揮することがあります。私の独断と偏見では、他の動物には見られない、最も優れた点は「コミュニケーション能力」だと思います。全くかけ離れた場所でも、千年後の人にでも自分の意志を伝えることができる生物は人間だけです。

かつて意思を伝達する、もしくは情報を得るという行為には今以上の行動と労力が伴っていました。ネットがなかった時代、何か資料を得る為には学生なら自転車で図書館に行き、書架を歩き回り、紙のページをめくり、ノートに書き写す。夏だったら暑い中で自転車をこいでいるでしょうし、書架を歩き回る床の感覚、紙をめくるときの音、紙質の感じ匂い。こういう一連の肉体的な感覚が紙面の情報を更に確かなものにしてきました。

ネットが普及してから20年、私たちの生活様式は大幅に変わってしまいました。居ながらにして世界中の人と顔を合わせて話し合うこともでき、居ながらにしておよそ必要とされる情報も得られ、異国語であっても概要程度なら翻訳することも可能。

携帯電話やスマホはそれを更に上回り、ポケットの中に入る程度の機械でそれができます。いつでもどこでも誰とでも通話が可能です。故に昔ならただ待ち合わせるという事にでも慎重に計画を練り、最悪の場合を想定したりしていました。

・・・故に、現代はとても便利です。・・・

情報を得るまでの一連の感覚が完全に省略されてしまったことは、別に例えるなら大坂まで行くのに歩いて行けばたっぷり2週間。しかし歩いている速度は五感に入ってきた情報を完全に処理できる早さでもあります。それが新幹線になると、景色がサーーーッと流れているだけ、という無味乾燥な情報になってしまうわけです。

本来情報を得る為に付随してくる、5つの感覚器官を通じて入ってくる五感を、IT社会は不要なもの、無意味なものとして削除してしまいましたが、それは一体何を意味するのか。

私は人間が機微を識る機会を奪われてしまったのではないかと思っています。

携帯がない時代、私たちは待ち合わせ一つにも慎重になり、かつ思わぬアクシデントが起きた場合も携帯やネットに頼らず知恵を駆使して解決しました。

そこで人々が得られたのは人や事象に対する機微をうかがい知ること。察知することです。携帯やネットが普及してからというもの、この機微を察知する能力が飛躍的に悪くなった気がします。知識や情報を直接鷲掴みにする安易さは、同時にそれに至るプロセスも省いてしまい、そのことによって、ある意味鷲掴みにした情報や知識の価値を半減させてしまっているような、そんな気がします。

そういうこともあって私は息子には今のところ極力IT機器には多く接しないようにしています。英語の学習や一緒に映像を見るときなどは使わせていますが、私や妻のこの心得のおかげで息子はゲーム機やパソコンにそんなに執心しません。友人との連絡も当然自宅ですが、昭和の頃の私たちと同じような労を費やしています。

調べ物はネットを使いますが、なるべく息子と図書館にも行きます。息子はいつも画面上ではなく、実際にモノで何かを作ったり、実験をしたりしています。ITはあくまで生活の補助的な道具に過ぎないというスタイルにしています。

ITでは決してできない、リアルな感覚、労力。多分、これは社会人になってから体験することは益々難しくなってくるはずです。もちろん、企業としてもそんな悠長なことは認められないことでしょう。故に学生のうちに、ITでは得がたい感覚を身に付けさせることは有意義ではないかと思った次第。その中で人との機微、事象との機微を識り、どう捉えるか、どう対処するか。これは特に次世代以降は希少な感覚だと思っています。

私はこの感覚をなるべく長く保ち続けることが、息子にとってよりよい将来の役に立つのではないかと思っています。

平成二十五年文月八日

不動庵 碧洲齋