不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

正師逢見

土曜日は息子とガリレオの最新作映画を見に行きました。

福山雅治演じる天才物理学者、湯川学准教授が非常に手の込んだ事件を解決していく様はいつ見てもおもしろいものです。

今回の話しは異色で、子供嫌いの彼が子供と接し、しかもその子供に科学を教えることまでします。

その切り口や、見ていてもなかなかおもしろく、感銘を受けるものでした。

理科が苦手だった少年はきっと、科学に目覚めたことでしょう。

息子は宇宙に関する科学を志し宇宙飛行士を目指しています。

その途上で、その方面に関する優れた人と出会って師と仰ぐかも知れません。

映画の帰路に息子に尋ねました。

やっぱり科学者っていう仕事に就いている人と実際会ってみたいよね?

もちろん息子は深く頷きました。

人は親を選ぶことができません。

友は自分に十分な選択権があります。

しかし師と出会い、師事できるかは、ある意味運命的なものがあると思います。

私の場合、よい親であると認識できたのは二親を亡くしてから。

友人の交友関係は歳と共に変わりましたが、やはり自分が歩んできた道相応の友人が多いのですが、有り難い事に多くの側面で自分よりも遙かに優れた友人が多いことに運の良さを感じ、感謝に堪えないことが多くあります。

師に関して、私は武芸と禅で師事している師がいますが、およそ考えつく限り、これ以上の幸運はないと思うぐらい極めて優れた師です。これは自分の努力などでそこにたどり着けるものではないと思っています。やはり良い師に巡り会えるのはある意味強運も必要ではないかと思います。

息子も科学の高みに導いてくれる師となる科学者に出会うことができるのか。

私はどこまで、彼を手伝うべきなのか。

良い師に恵まれたにもかかわらず、私の場合は武門と禅門に片足を突っこんだ程度の体たらくですが、息子には科学という門を堂々とくぐり、優れた師の後を追って欲しいと思います。

途中まで背中を押してやることはできても、方向や早さは自分自身で決めてもらうほかありません。

ほんの少しだけ、正邪を見極める知恵を貸すことはあっても、やはり自分で決めてもらわねばなりません。

良い師がどこにいるのか、地図などありません。さりとて私はそれは決して偶然ではないとは思うのです。

まずは私ができることは、良い師に出会えることの素晴らしさを熱く語ること。

これはいつも語っています。

良い師に出会えることはある種、天命に近いものがあるが、それは決して偶然ではなく、自分の努力や熱意にも関係しているとよく言います。

そして毎日、祈ること。

私はそのくらいではないかと思うのです。親がコネやつてを駆使して優れた人材を子供の目の前に立たせても、それは師として、弟子として相まみえないかも知れません。(そうやって師弟関係になる人も否定はしませんが)やはり天の時、地の利、人の和が見事に交差したときに、それは現れるものだと私は思っています。だから私は息子の師を私が探す愚はしないつもりです。ま、目の前を通り過ぎようとしたら声ぐらいはかけるかも知れませんが。

10年後、20年後、どんな科学者、宇宙飛行士になっているか、とても楽しみです。

平成二十五年文月八日

不動庵 碧洲齋