今し方、夕食後にちょっとした買い物をしにスーパーに行ってきました。
レジを通って食料品を入れようとすると、次の客は年老いた父親と多分まだ独身であろう、背は高いもののあまり頼りがいのなさそうな、私よりはやや年下の息子でした。
とりとめのない会話をしながらレジを通り、父親がお金を払い、一袋ずつ持って去っていきました。
私はしばらくその光景を見つめたままでした。
最近は急逝した父のことを思い出すことはあまりないのですが、この時はふと思いだしてしまった次第。
何となく懐かしく感じてしまいました。
母ががんで他界して、自分が結婚するまでと、妻子が海外に行っている間は、父と二人で時々買い物に行ったものでした。
父と息子という組み合わせの買い物は比較的珍しいと思います。
私が見たその息子さんは、身体が大きいだけに頼り甲斐がなかったのが印象的でしたが、我が身を振り返ってみるとやはり、父から見て私は頼りになるほどではなかったのだなとしくじたる思いが先に立ちます。
父母が他界して今、どんなことを考え思っていたのかはかなり明瞭に分かってきました。
そしてやはり、父母もそうしたであろう方向を向いています。
恥ずかしながら私はあまり忠孝に聡くなく、多分父母から見たら大人としては半人前のように映っていたと思います。
父が亡くなる直前、市民病院の救急口に佇む父が最後に見た父の姿でしたが、それが今でも明確に思い出せるほど妙にさみしく感じたのは、もしかしたら子供もいるのに頼り甲斐のない私のことだったのか、結婚もせずにいた弟のことだったのか。時々、思い返すことがあります。
その後悔の気持ちを奮い立たせるというか、なんというか、そういうつもりで息子を育てています。
私の子育て、教育の熱意、熱源は多分ここにあると思います。
私の同じ年齢の時に比べ、学力では非常に優れていることは嬉しいのですが、そんな事よりも智慧に優れていることが何よりもうれしく思うのです。
勉学ではなく、解きがたい命題や答えのない問題に取り組み、深く観察し大局を俯瞰できるものの見方をできる人間になりつつあることがうれしく思います。
命、生、死、貧富、戦争、平和、神、仏、愛などなど、子供のうちからこういうものに取り組んで、しかも驚くほどよく見えていることが感謝に堪えません。私が子供の時はこんなことまで考えたこともありませんでした。
大人になって職場や仕事で悩むことがあっても、人間の根幹、本質的なところで悩みが少なければそれが一番よいと思っています。随分と偉そうなことばかり書いてはいますが、私は未だに煩悩まみれです。それ故に息子には一段と崇高な精神の持ち主になって欲しいと思っています。
帰路、その親子の背中を拝みつつ「長生きしてください」と祈りました。
平成二十五年弥生十五日
不動庵 碧洲齋