昨夜、息子といつものように風呂に入ったとき、祖父が乗り組んでいた輸送船名候補と沈没場所が分かった話をしました。
「そういえばさぁ、俺のおじいさんが乗っていた輸送船がだいたい分かったんだよ。インターネットって凄いよな、そんなことまで分かるんだから。」
「へえ、で、何て名前なの?」
「これ以上分からなかったんだけど、乗っていたかも知れない船は二つあって、一つは玉姫丸、一つは 鹿島山丸っていう名前なんだ。」
「その船はいつ沈んだの?」
「玉姫丸は6/5で鹿島山丸は6/6。これでどっちにおじいさんが乗っていたのか分かったらなぁ・・・」
「パパのおじいさんって何歳で死んじゃったの?」
「う~ん、31歳かな。バアバが4歳になる前だ。お前がちょうどサイパン島にままと行っていたときと同じ歳だな。」
「31歳・・・」
息子はしばらく黙っていました。
「パパのおじいさんさぁ、乗っていたのは鹿島山丸の方だよ。」
私はびっくりしました。
「え?何でそう思うんだ?」
「ん~、だって1日だって長く生きていて欲しいと思うじゃん。だからきっと鹿島山丸に乗っていたんだよ。」
まじめに泣きそうになりました。
そうか、子供はこのように捉えるのか。
「5歳の女の子と3歳の女の子、たぶん1.2歳の男の子と奥さんを残しておじいさんは戦争に行った。毎日、どんなことを考えながら戦争に行ったのかなって考えるんだ。」
「・・・」
「おじいさんは戦争なんか嫌いだったと思うよ。子供が3人もいたんだから。でもどうしても行かないといけない気持ちだったんだろうな。そういうときは俺も行くと思う。他のお父さん達だってきっとそうすると思う。でもそうならないように努力しなければならないな。」
「うん」
「俺たちは毎週、敵だったアメリカ人と一緒に稽古をしている。今は敵ではなくてよい友達だ。ましてやお前はサイパンで他の国の子供達と仲良く幼稚園に行っていたんだから。おじいさんがそう願ってから、叶うまで60年以上、おじいさんから数えて4世代もかかった。だからお前もそういう平和を大事にしなくちゃいけないね。」
息子のこの感性にはいつも頭が下がります。
だから祖父の命日は1944年6月6日 太平洋上16.28N 142.16Eにて鹿島山丸の乗組員として戦死したと信じるようにします。
近日中に靖国神社に行こうと思います。
平成二十四年霜月十四日
不動庵 碧洲齋