不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

祖父の軌跡

私の母方の祖父は大東亜戦争にて戦死しました。享年31歳

祖父の生まれは現在の高崎市棟高町、昔は堤ヶ岡村と呼ばれていました。

地元ではいわゆる豪農で次男か三男として大正2年、1913年生まれました。

部屋住みの身分でしたが、普通に暮らしていればまあまあ楽に暮らせる身分だったと思います。

つい最近、時代祭でそこを通りましたが迂闊にも気付きませんでした。

しかしその辺りは初めて行ったにもかかわらず、何か妙に懐かしさを覚えたものです。

昭和一桁が終わる頃、近所の貧農の娘を見初めました。私の祖母です。

無論、家は大反対したようでしたが、祖父の決意は固く、祖母を連れて東京に駆け落ちしたとのことです。

(ただし後で和解して、戦後母は時折、祖父の実家に遊びに行ったとのことです。やはり孫は可愛いと思ったのでしょう)

駆け落ちした先は東京は浅草の下町。

田舎からやってきた若い夫婦が始めた仕事は下駄の鼻緒作りでした。

数こそ激減しましたが、今でも浅草で見かけることができます。

浅草寺の参道沿い仲見世にもその場で作っている店があります。

それは多分、昭和10年から12年頃ではなかったでしょうか、最初の子供は娘、もう他界しましたが私の叔母でした。

次に生まれてきたのも娘、それが私の母です。それは昭和15年の11月のことでした。

その頃は日米の関係はかなり悪化し、世の中を暗くしていたことでしょう。

それでも祖父母夫婦は二人の娘をもうけて、ささやかながら幸せな暮らしをしていたのだと思います。

母が生まれた翌年、ちょうど1年後、とうとう戦争が始まってしまいました。

祖父母夫婦に待望の男の子が生まれたのは戦時中ですが、いつか分かりません。多分昭和17年か18年だったと思います。

話しによると祖父は少し肺を悪くしていたそうです。

戦前、祖父が成年になった昭和8年頃の徴兵基準はそんなに厳しくなく、頑強な肉体でなければ、例えば中国戦線などに徴兵されることはなかったようです。数字で言うと10-25パーセントの成人だけが兵役に就いたそうです。

なので祖父は多分、それまで兵役をしたことはなかったと思います。

今思うとその兵役義務がなかった2年(陸軍の場合)は、彼にとってかけがえのない、平和な日々であったと想像します。

祖父は周囲の同じ年齢の男性が出征していく様をみて悔しがったと、母が言っていました。

祖父は右翼でも軍国主義者でもありません。断言できます。ただの下駄の鼻緒作りの職人でした。

私も父となった今、彼の気持ちは痛い程よく分かります。国が非常の事態に陥り、国民が自分たちの生活を守るために動いているだけです。

アメリカが憎いとか、そういうレベルではなかったはず。そういう高級な感情や気持ちを持っていたのは政治家や軍人の一部だけだったと想像します。

昭和19年に入り、体の弱かった祖父にもとうとう召集令状が来ました。

祖父は喜んだそうですが、それは戦えるからではなく、自分も家族を守る防壁として役立てるという気持ちだったと確信しています。繰り返しますが、それは絶対間違いないと信じています。可愛い2人の娘と赤子の息子、愛する妻を持ってなお、軍国主義に身を染められる人がいたでしょうか?そう思うのは今の平和すぎておかしくなっている世の中であればこそです。

勤務先は海軍。多分、わずか1.2ヶ月程度の訓練だったと思います。

その時、日本は統治領であったサイパン島を米国に取るか取られるかという瀬戸際でした。

祖父は第3530船団所属の輸送船の乗組員でした。色々調べましたが、以下のどちらかの船だったと推定します。

三井船舶 鹿島山丸 2,825t

浜根汽船 たまひめ丸 3,080t

第3530船団は1944年5月30日に10隻の輸送船団としてサイパン島に向けて出発しました。

しかしその護衛艦隊たるや、往事の連合艦隊の面影はなく、わずか駆潜艇3隻と水雷艇1隻という貧弱なものでした。

そして米海軍は3隻もの潜水艦で待ち構え、次々に撃沈していきました。

サイパン島にまともに到着できたのはわずか1隻だったそうです。

上記の船舶は海軍徴用で往路に撃沈されていますから、どちらかの船に祖父は乗り組んでいたと思われます。

中日新聞社会部編『烈日サイパン島』には生き残った人々の証言をもとに、米潜水艦の攻撃にさらされる輸送船団の状況が記されているそうです。

「六月四日の勝川丸につづいて、五日、高岡丸と玉姫丸(海軍運搬船)、六日には、はあぶる丸と鹿島山丸(同)が連続して米潜水艦の魚雷攻撃に遭い、海に沈んだ。多くの将兵は火器、戦車、食糧、陣地構築資とともに海のもくずと消えていった。」

実は以前、靖国神社にも問い合わせましたが、靖国神社分かったことはネットよりも少ない情報でした。しかも命日(7月8日)と言ってもそれは米軍がサイパン島の占領宣言をした1日前、多分当時の日本軍大本営が面子を保つ為にその前日にしたのだと思います。命日として通告された日の前日には最後の万歳突撃がありました。つまり万歳突撃した翌日に死んだことになっています。

太平洋の奇跡」という、竹野内豊主演の映画があります。米軍のサイパン島占領後、ゲリラ戦を展開してきた実話です。妻の親友の祖母の弟がまさにその主人公だったそうです。そんなこともあって家族で何度も観ました。息子は司令部で高級将校たちが腹切りをするシーンを観る度に「腹を切るなんて最低だ、他の兵士たちと一緒に突撃して死ぬべきだ」と憤慨します。腹切りで万事納めてしまう手法は今でもまかり通ることしばしば、その事実に震撼させられますが、私も息子と同じ意見です。腹切る暇があったら討ち死にしろと言いたいところです。

話が逸れました。つまり祖父の本当の命日は6月5日か6日になります。恐るべきかなネットはその沈没場所まで分かりました。

19/06/05 たまひめ丸(浜根汽船)雷撃による 18.40N 140.35E

19/06/06 鹿島山丸 (三井船舶)雷撃による 16.28N 142.16E

どんな想いで死んでいったのでしょうか。父親になってから何度も何度もとりとめもなく想像します。3人の子供がいて妻がいて、ささやかながらも平和な家庭があり。しかし、それでも結論から言えばやはり戦うと思います。怖い、逃げたいという気持ちもありますが、やはりそれでも巨大な敵を1分1秒でも食い止められるなら、喜んで身を投じます。国家の権力とかは関係ありません。家族が大事なら皆、そうします。逆に今の世、戦争に行った連中は軍国主義に洗脳されていた、などと嘲る連中は許し難く感じます。祖父は普通の職人で父親でした。多分誰でもそうすると思います。少々不安ですが、今の世の中であっても、メタボで運動不足気味でゲーム三昧のお父さんたちであってもきっと、家族のために戦わざるを得ない状況になったら、戦う人が大半だと信じています。無論、そうならないために少しでもマシな政治家を選んでいるはずではありますが・・・。

サイパン島には2007年、父が急逝した年に行きました。念願でした。

島の至る所にある慰霊碑に手を合わせ、できる限り読経しました。

ちなみに韓国人犠牲者の慰霊碑にもそうしました。当時韓国人なんていません。彼らも立派な日本人でした。

飛行機でたったの3時間です。南のリゾート地です。しかし私には死ぬまで激戦地です。息子と妻はそこで1年、仕事で赴任しました。息子は幼くてよく分からなかったかも知れませんが、そこで英語だけで異国人たちと仲良く暮らしていました。

多分、祖父はそれを夢見て死んでいったのだと思います。

祖父から4世代かかって、やっとそうなりました。彼の孫とひ孫はアメリカ人と普通に暮らしています。

戦争のある世の中ではない、戦争のない世の中を夢見て死んだのだと思います。

だからネット上で愚かにも戦争だの何だのと軽挙蒙昧な発言をする連中を本当に憎みます。

どんなことをしても、世界でもたぐいまれな平和を維持してきた日本を守らねばなりません。少しでもまともな政治家を選び、日本人として自覚や誇りを持つ。夢や希望も持つ。それを以てギリギリまで戦争を回避するように死ぬ気で努力しなければなりません。それは別に大東亜戦争前でもそうしていたはずです。

それで、どうしてもやむなき事態になったときが本当に滅私奉公するときです。今、言った言葉は明治天皇が勅した教育勅語にもちゃんと書かれています。その通りです。そんな事態でも戦わない人は宗教的に固い信仰がある人以外はその国の国民ではありません。

私はそう思います。

本当はどちらの船に乗っていたのか知りたいところですが、今ある世界的にも希有な平和を享受している事実が、まさに祖父らが成し遂げた、夢見ていたことだと信じて、毎日読経して感謝の念を持ち、息子にはいつも先祖の犠牲の上に成り立っていることを言い聞かせています。

ちょっと今日は少々重いテーマでした。

平成二十四年霜月十三日

不動庵 碧洲齋