不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

どうも勘違いしている

これも他流の武友と呑んでいる時に出た話。

同門外国人の中に、先生が昇段を勧めると嬉々として飛び付く御仁をよく見かけます。

現代武道の低い級、段ならいざ知らず、現代武道・古流を問わず、高い段位において、自分の昇段を厚かましく申請するのはいかがなものかと思います。

(現代武道については分からないところもあるのですが、たとえ自薦審査申請であっても、師や先輩からの薦めあってのものかと)

他流に関してはよく分かりませんが、私が知る限りでは高段位の自己申請というのはあまり聞いたことがありません。

以下は門下において何人もの、そうしてきた外国人たちに直接理由を聞いて、多かった回答です。

・先生は絶対である。従って先生の眼目に適っているから受けるべきである。

・先生が好意で推挙してくれたのだから何が悪い。喜んで受けるべき。

・自分でよいと思ったのだから申請する。そして先生が受けたのだから問題ない。→先生は絶対だから。

大抵はこんな理由です。中にはシャア(機動戦士ガンダム)やラインハルト(銀河英雄伝説)顔負けの昇段スピードの者もいます。(冗談に聞こえたらすみません。実は本当です)

先日も外国人門下生のブログに上記のようなことが書かれていたので、長嘆しました。

筆にいささか含むところある御仁に予め申しておきますが、決して我が武門を蔑ろにするものにあらず。

日本人の感覚では例えのどから手が出るほど段位が欲しくとも、普通は何度か固辞します。三辞三譲という言葉もあるぐらいです。

そして固辞する内に否応なしに自分の本当の力量が見えてきて、拝受した段位に恥じないようにと、密かにもしくは公言して心に誓うものです。もちろん、師は弟子の固辞具合で力量を図ります。

そして、例え形式的にでも固辞しながら慎んで受け、高くなっていく段位というものは、家の土台の土の如く堅牢に固められたものになり、家が建てられても不動を保ちます。

多分、日本人であればそういうことは習慣的、本能的に理解しているものだと思います。

段位についてはいつもやかましく言っているので、此度は師に対する姿勢の違いについて着目しました。

帰依と信仰、という二つの単語があります。

その筋の業界以外の方は何がどう違うのか、よく分からないかも知れません。

キリスト教ユダヤ教イスラム教では信仰する、と言います。神道もそうですね。

仏教では帰依する、と言います。

私はこの辺りのモノの考え方の違いにあるのではないかと勘ぐっています。

雲上の聖なる存在、唯一絶対者を信じて仰ぎ見る、これが一神教における姿勢。

帰依は元々いたところ、生まれてきたところ、死んだ後にいくところ、仏、もしくはそれを体現してくれるお坊さん、何でもいいのですが、それを頼りにすること。別に高いところや低いところにはなく、神聖であったりもしません。そもそも拠り所にする以上、高いところや低いところにあってはならないと思います。

武芸だけではありませんが、とりあえず武芸の師に対するキリスト教圏の門下生の姿勢はどうも「信仰的」のような気がします。もちろん、本来、先生も弟子も人間ですから「帰依的」であるべきです。

これに関しては後ほどFBに英語でも説明しようと考えています。

重ねて言上仕りまするが、此度の文言は決して我が武門を蔑ろにするものにあらず、むしろ門下生の師に対する姿勢について記したものと心得られたし。

平成二十四年文月二十四日

不動庵 碧洲齋