不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

武と禅について

先週土曜日、稽古の後に他流の武友と久しぶりに呑みました。

年齢が同じと言うことや、ネット上で知り合ってから実際に会うまで割に時間があったので、武芸に関するものの考え方に非常に似ているものがあり、また、私が敢てブログ上にあまり書かない事も、かなり奥深いところまでよく洞察している辺り、非常に感銘を受けます。

今回、本人は酔っぱらったはずみで、ずけずけと言ってしまったと言っておりましたが、その中で当を得た非常に共感したことを言っていたので、ここにきて私はハッキリ書いた方が良いと思うことがありました。多分、武道をされている方、禅をされている方にもある程度参考になる考え方だと思います。

基本的に私は武道と禅は全く別物だと考えています。

武道にとって、禅はたくさんある修行方法のほんの一つです。

同門や他流の知り合いには「ただ坐ることに何の意義を見いだせない」と言われたこともありましたが、まさにその通りです。別段怒りもしませんし、否定もしません。

現代武道や格闘技において、禅がどれほど役に立つか、私自身はかなり懐疑的です。なまじ役立ってもその費用対効果(禅はお金はかからないので、時間対効果でしょうか)もとてもよいものだとは思いません。

効率を求めるなら現代においては他にいくらでもよいものはあります。

武道をやっていると、昔の侍がやっていたので自分もやってみようと思いがちですが、そういう考えならまず止めた方がいいでしょう。そういう考えで禅をやっても大した恩恵はありません。

また、自分の武道の修行を権威づけるために禅やら滝行はやらない方が良いでしょう。というかやらないでください。

禅や滝行を真剣にしている人たちに失礼ですし、不純な動機での修行はジャンルを問わず不道徳です。

あまりきついことを言うのもなんですから、逃げ道があるとすれば、不純な動機で始めても、その本当の良さが分かればよいと思います。

私の場合はたまたま、禅という水が合っただけです。だから私はブログではあまり武道と禅をクロスさせたり、ミックスさせません。禅を以て武を語ることがあまり好きではないからです。

呑んだ武友も言っていました。「武道の修行で悟れないことを禅に持ってくるな。甘えるな、そういう奴は武道の修行が足りない。」

私が言いたかったこともまさにその通りです。

私が禅をするのはかつて自分が八方ふさがりの憂き目にあった時、武道は本当に笑ってしまうほどに自分にとって盾にも剣にもなってくれなかったからです。他の方の場合は分かりません。私の場合は武道は思ったほどには万能でも全能でも最強でもありませんでした。

それで藁をもすがる気持ちで今までちょっとかじってきた禅を本格的に始めた次第です。

情けない話しではありますが、実際のところ本当に武道ではカバーできない領域を求めていたが為に禅を始めました。

修行とは、などと書けるほどエラくも何でもありませんが、敢て書かせていただけるとすれば、本来一つのことに徹底することだと思っています。例えばよく、こっちの流派、あっちの道場に行き、分かったつもりになっているのは知識や技術と蓄積するためで、本来の修行とは違うと思っています。

一つのことに徹底すれば道は拓ける。凡庸ではありますが、そういう考えで日々を真摯に生きてみたいところです。

平成二十四年文月二十三日

不動庵 碧洲齋