不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自我想うに自我あり

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人間が他の動物と異なるという指標はよく、道具を使うとか言葉を使うとか言われてきていますが、近年、人間以外の動物でも道具や限りなく言葉に近いものを使用しているという研究が散見されるようになってきました。 従って従来の境界線はかなり怪しげになってきています。 私的には以下の二つが人間かどうかの指標だと考えています。 1.自然界の不可能を可能にしようと試みること。 2.妄想すること。 1に関しては前にも述べたので省略します。 2に関して。簡潔に言えば「タラ・レバ・カモ」を食すと言うことです。 中国の思想書韓非子」に載っている「株守」というたとえ話があります。 中国の話ですが、あるところに農民がいて畑を耕していたところ、何かの拍子にウサギが跳びだしてきて、農民の前で木の切り株の根につまずき、首の骨を折って死んでしまいました。 農民は小躍りしてウサギを持ち帰り、食べたのですが、翌日からその農民は畑仕事もせずにずっと株を見守っていた。というバカを戒めた話です。 私の想像も多分に混じりますが、他の動物だったらそういうことはしないと思っています。 理由は分かりませんが、人間だけがこのような妄想力が極めて高く、妄想に駆られることが極めて大のようです。 人間は生存する以上の生物だからかも知れません。 というのは「嫌いなものを受け入れてまで生きたくない」あるいは「死んで逃れられる苦難なら死ぬ」という選択です。 なぜこうなんでしょうか。私なりに考えてきました。 結論としてはズバリ「自我・エゴ」です。 西洋では禁断の実を食べてからとされてきていますが、この表現はなかなか言い得て妙です。 「私がいる」「私は違う」という錯覚を真面目に信じるようになってしまったから、ではないかと考えました。 師がよく言うたとえです。 「飲む者が飲む物を飲む自分で自分を意識せねばならない時間というのは、実は1日においてごく僅かです。 それ以外、例えば今私が打っているキーボード、叩いている感触、これだけだけが世界の全てです。 そこには「碧洲齋」も「禅」も「武芸」も「会社のオフィス」もありません(あ、最後のはちょっとマズいですけど・笑)。 だから 「する者がする事をする」 本来それだけなのです。 自然界において、他の動物、人間に近いチンパンジーなどでも自己を認識する作業というのはあったとしても人間よりも遙かに少ないことだと思います。 動物たちは日々の生きるための活動に尽くす、活動に在り潰れる、それだけのように思います。 ところが人間はその行間に妄想・錯覚・幻想などをたんまりと詰め込み、元々見えていたものすら見えなくさせてしまいます。 もっとタチが悪くなってくると、自己破壊するまで「妄想・錯覚・幻想」を詰め込んでしまいます。 もしかしたらそういうのが最近の精神的な疾患とか、異常な犯罪なのかも知れません。 もともとそんなにたくさん自分で自分を意識せねばならない時間というのは必要ないところにきて、IT化社会に代表されるような現代において、必要以上に自己を意識、認識させられれば、どんな健全な精神の持ち主でも病になろうというものです。 自分で自分を意識せねばならない時間というのは自分が困るだけではなく、他人も困ること多大です。 人によっては他を攻撃(口撃)したりすることによってしか、自分のアイデンティティーを確立できない人も多々見受けられます。 非難・誹謗・中傷・批判・批評 etc,.etc。 赤々と燃えさかる憎しみの炎に手をかざさないと、我が身を感じることができない、そんな感じです。 実際はその存在そのものがやわらかで暖かい日差しそのものなのに、灼熱の地獄火に手をかざしたがるものなのでしょうか。分かりません。 最初のそれは人間が言葉を使い出してから、その次の波、インターネットが普及してからは輪を掛けてそんな風になってきています。コトバというのは人間に妄想や憎念を増幅させてしまう最たるものですね。 (私とて過去に人の非難をしてしまっていることもありますし、鵜の目鷹の目でみたら、そう捉えたがる人もいるでしょうし) しかしその逆はありません。 その逆、慈しむという行為は自我を殺す行為ですから。 そういう意味では仏教における「慈悲」、基督教における「愛」はエゴの否定から来ています。 時代が時代なので、エゴまみれ、妄想まみれの人をよく見かけます。 私の周囲にも少なからずいます。 どんな身近でもしょせん他人ですから、助けようがありません。 まして相手の体をかっさばいても「心」なるシロモノはどこからも出てくるはずもなし。 そういう人たちは自分で自分の首を絞めて「苦しい」ともがいています。 私とて聖者や賢人ではありませんから、時折、妄想や錯覚を感知します。 幸い、「それ」が異物として排除しますが、まあそんなことしているうちは全然修行が足りません。 ともあれ言葉でとやかく言うのは全く以て愚行だと思っています。 ただし徳の高い人であれば別なのでしょう。 本来、私が書いているこれだって決してよくはないのです。 ただ必要悪とか私が書きたいからというだけです。 あと、英文で書くための準備稿という程度です。(気が向いたらですが) コトバで上記のような人たちに言っても、それは麻薬中毒者に麻薬を止めろと言うのと同じ事です。 正しい正しくないという以前に聞けない可能性が大です。 強いて言えば、祈ってあげるだけでしょうか。これもまた大切な慈悲だとは言いますが・・・。 自我をして 自我にまみれて 自我に在り 自我の地獄に 悩み苦しむ 善く生きるにはやはり、必要以上のエゴは必要なさそうな気がする、今日この頃です。 SD110506 碧洲齋