不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

利休道歌 九

一点前点るうちには善悪と 有無の心のわかちをも知る 要するに点前を初めて終わるまでの間はその行為に無我夢中たれと言うことのようです。禅的に言えば点前三昧の境地ということだと思います。 師によるとそもそも時間という現象は「ない」のだそうです。 好きなことをしているとあっという間に時間が過ぎてしまう、というあの現象でしょうね。 時計が回っていることに対して何らかの現象を求めたり、感覚を求めるからあるのだとか。 「宇宙」と言う言葉があります。宇宙船が活躍している場ですが、英語では普通「space」と言われていて、要するに「空間」です。「宇宙」とは「宇:時間、宙:空間」という意味だそうです。なかなか深遠な造りになっています。時間と空間というものは仏を見照した人によると「存在しない」のだそうです。(存在しないと言うよりも、それそのものが仏なのかも知れませんが) 話が逸れました。お茶を点てるときもそのように三昧境地にあらねばならないと言うことでしょうね。 私たちは程度に差こそあれ、自我や誇り、矜恃を持った存在です。まあそれがよい方向に突き動かすこともありますが、そうでないこともしばしば。上手いのか下手なのか、褒められるのか貶されるのか、正しいのか正しくないのか、そんな相対的なことが心を占めていると、本来もてなす相手を忘れてしまいます。もてなすための行為であることを忘れてしまいます。 私も未だにまだまだ気分悪いほどエゴ丸出しと、手厳しく批判されることしばしばですが、なにせ自分のことです。そう易々と消し去れるわけがありません・・・といい訳がましく言わせて頂きます。 一言で言うと「無になる」ということではないでしょうか。多分この句はとても禅的な気がします。他人の目はありますが、他人は目であって主体にはなれません。逆にあなたという主体は離れて他人の目にはなれません。そういう風に割り切って、今目の前で行っている事に没頭し、無我夢中になれたらきっと比較的楽に仏の境地を知ることができるものだと思います。(と、簡単に言ってますね) 武芸でもやはり「あいつは俺よりも上手い、こいつは俺よりも下手」という視点はあります。いや、正直に言うとあって然りだと思います。なかったら本来の戦闘行為として役に立たないからです。しかし武芸が古来より現代に至るまで洋の東西を問わず戦闘行為以上と見なされ続けているので、私としては上手い下手があってもよいが、それに囚われない視点が重要だと主張したいところです。上手い下手もたくさんある側面のたった一つに過ぎない。上手い下手という考え方、もしくは相対的な見方はある意味、人を卑しくさせてしまう魔性の視点のような気がします。事実、行為そのものはただそれだけなのに、周囲が騒いでそれを変えてしまいます。 例えば今から65年前までは米国人を100人殺したら勲章ものでしたが、今同じ事をしたら間違いなく死刑です。行為そのものは同じです。だから主体者は行為そのものに傾注しなさいと言うことでしょうか。 特に今、私は僭越ながら人様に指南もしている立場にあります。全く以てよくこんな事をしでかしたなと、よく思ったりもします。何でそんな事を広げたかと言えば、単に「より効率的、合理的に武芸を精進できるから」他なりません。道場や門下生をも私の向上のために踏み台にします。とても大切に(笑)。だからどうしても上手い下手、良し悪しという視点でも門下生を見なければなりませんが、それに囚われないようにいつも心がけています。うまくそれが機能しているかは別として。 ノーマークの美人や故の怪しくない大金だったら囚われまくって虜になっても別段他人を困らせるわけではありませんが、武芸では門下生を善からぬ方向に向けさせないためには先ず自身が無念無想、三昧境地の心で武芸を精進していくことが肝要かと思います。そうでないと門下生達を犯罪予備軍やリーサルウェポンにしかねませんから(爆)。 ともあれ「その行為になり潰す」とはいつも禅の師が言っていることではありますが、これが一番難しいといつも痛感させられます。
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SD101111 碧洲齋