不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

利休道歌 弐

【Original】

習いつつ

見てこそ習え

習はずに

よしあしいうは

愚かなりけり

「習う」の漢字の象形は、かつては羽と自の漢字から成っていました。

つまり鳥が飛翔する練習をしている様を表したものです。

(余談ですが、自⇒白という変遷にも興味がありますね。棒が一本少ない、というのは少しでも身を軽くしないと飛べないぞ、ということなのでしょうか。棒⇒望を少なく、という戒めでしょうか。)

鳥にとって、飛ぶ飛ばないは死活問題です。鳥本来の存在意義そのものです。

しかし、鳥はそういうことを考えて飛ぶ練習をするわけではありません。

唯々無心になって飛ぶ練習をします。飛ぶ練習そのものになるのだと思います。

そこには自我がありません。「習」は自に羽が生えて羽ばたき、自我に居着かないようにも見えます。

他人のためではありません。自分だけの為にあります。

自我を忘れて自分のためにだけ習う、と言った方がいいかもしれません。

好きだからやっているという程度はいいでしょう。

自分専用にカスタマイズされた効果や効能を期待して習い事をします。

従って他人がその利益に預かれるのはあくまで副次効果と考えた方がいいでしょう。

自分という存在は後にも先にも宇宙のどこを探しても1人だけ、1回限りの存在です。

従って他人様が自分の習い事にとやかく言うのはおかしいことになります。

他人が自分になれたら話は別ですが。

禅的には自我を持たない人からの厳しい言葉は自分のためになります。

たぶん、そういう人はとても素晴らしい人だと思います。

本来、習い事はこのような姿勢で取り組みたいと思います。

ただ、全てを一から始めるとなると、膨大な労力が必要となります。

そこで伝統芸能の場合は人類の叡智の蓄積、流派というものがあります。

流派で学ぶのであれば、先人、先生、先輩に対して敬意を以て事に当たりたいところです。

白い羽で自我を蔽うような謙虚さ、「習」にはそんな意味も含まれているのかも知れませんね。

画像

SD100803 碧洲齋