不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

学校教員のこと

教員免許制を再検討、養成課程延長も…文科省

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100517-OYT1T00623.htm

軍隊の例えで恐縮ですが、一般に駆逐艦クラスの船は設計から始めても1年程度で建造できるそうです。しかし、そのクラスの艦長を育て上げるのには大体10年かかるそうです。だから戦争が始まってから高級軍人養成の数をやたらと増やすところは、亡国の兆しありと見なければなりません。最も今はどの国家でも戦争は腰が引けるほどハイリスク、ローリターンである上に、何年も悠長にやったら米国でも国家が破綻してしまいますから、準備で9割以上の勝利に繋がるという、いびつな構造にはなっていますね。

資源も国土も非常に少ない我が国の根幹はやはり教育です。江戸時代、低く見積もっても国民の半分は読み書きができました。信じがたいことかも知れませんが、かの英国でさえ、明治時代の半ばになっても識字率は3-4割だったそうです。その辺り、明治天皇はご賢察されていたためか、教育勅語のようなものを国民に示されたのだと思います。

最近まで教職というのはある意味、宗教関係の人間並みに聖職扱いでした。「知っている」だけでなく、「人徳その他」も要求されました。しかしながらこのところ、教育関係者のモラルの低下があまりにもひどいような気がします。ちょっと極論ですが、教育さえしっかりしていれば、他のほとんどの職に就いている者達が多少愚かでも問題ないとさえ思います。

もちろん、教育というのは先生だけに押しつけるのはもってのほかです。両親、兄弟、地域、全てがあり、その上での先生だと思います。例え先生が金八先生並の優れた人格でも、地域社会や保護者たちの協力なしではいかんともしがたいところです。

親が悪いのか先生が悪いのか、これはちょっと鶏が先か卵が先かという問題になります。これを言っても仕方ないので、そこは国家の力で何とかして欲しいところです。

・・・が、どうもこの方針を見るにズレているような気がします。学校の先生に足りないのは指導力云々ではなく、社会性などです。例えば英語の先生だったら英語圏で1年間、教育とは全く関係ない分野で働かせながら研修をさせるとか、社会の先生だったらアフリカとか中東で海外青年協力隊に参加させるとか、日本史だったら国内で発掘や修復作業を手伝わせるとか、何でもいいので学校以外の場所で社会勉強を学ばせた方がいいと思うのです。先生たちには大変でしょうが、日本は半世紀以上戦争を知らない国です。戦乱さめやらぬ国などに短期間でもいいから行ってみてください。そうしたら胸を張って命の尊さを訴えても良いと思います。

高校の時に海外にいたことのある英語の若い女性講師がいました。ただの講師でしたが他の先生に比べて経験豊富、行動力や観察眼に優れていたように思います。おかげで好きでもないのにやむにやまれぬ事情で泣く泣く覚えていた英語を、更に激しく責め立てられてしまいました。あのような経験値豊富な先生が増えたら、きっともっと違うものになるのではないかと思います。その点、豪州や米国の学校の先生は社会経験が豊かなように思います。

もっとも、未だ日本の方が優れていると思うところもあります。先生方には窮屈でしょうが、「学校の先生」は「聖職扱い」なのです。「技術職」以上なのです。求められているものが高いのです。これはずっと昔からそうなっています。欧米とはこの辺り隔絶しています。失礼ながら欧米の教職の方がずっとお気楽です。欧米の教育論が津波のように押し寄せてきても、あまり変化がない辺り、大したものだと感心します。なので、その牙城の主にふさわしい人徳を身に付けて欲しいと思います。

学校教育は日本の場合「込み込み」です。何が「込み込み」かというと、道徳や公共心、社会生活力などなど、学業以外のものも教えることが必須であり、当たり前であるという点。給食の配膳、校内の掃除などなど、欧米諸国ではあまり見られない習慣をも教育の一環としている辺り、西洋に比べて格段に優れていると思う点です。これらは優れてはいますが、自宅や地域のサポートも必要となってくるという制約はあります。だから日本の教育は多くのバックアップが必要なのです。

ということで、自分の子供にはもちろん、他人の子供たち、アダルトチルドレンにも時には優しく時には厳しくしてあげましょう。

SD100517 碧洲齋