不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

深遠

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近頃良く「深み」という言葉についてよく考えます。

関係があるのかどうか分かりませんが、「名人」と「達人」という言葉があります。

大辞泉によると名人とは「技芸に優れている人、特定分野で評判の高い人」で、達人とは「技芸・学問の奥義に達している人」だそうです。

どちらも大変優れた能力を有する人には違いないのですが、達人とはつまりその道の奥義に「達している人」という意味ですから、私は「名人」よりも「達人」に憧れます。

勝手な見方ですが、「名人」は広い人、「達人」は深い人という印象を受けます。

広さとは目が届く限りの空間です。目が行き届く際までです。

深さとはそもそも目が行き届く対象でないこともしばしば。「底知れぬ」という言葉は恐れすら抱かせます。

懐の広い人も大変素晴らしいのですが、私はどちらかというと底知れぬ人になりたい。

懐の広い人というのは、その主体が大変茫洋とした大きさを指しますが、それでも取りあえず主体が「ある」。

底知れぬ人とというのは、ある意味その人が見えないような印象があります。自分がない、自分を消す、自分をみせない、そんな言い方かも知れませんが。

広さを例えるなら小舟は嵐に揉まれますが、巨艦は台風が来ても全く動じません。

深さを例えるなら貧弱な性能の潜水艦は浅く潜り、音も出すのでたやすく見つかりますが、優れた潜水艦は深くかつ静かに潜るので文字通り姿を消しています。

機械のスペックは数値に出来ますが、人はそうできません。

何と言うのでしょうか、広さにせよ深さにせよ、それを言葉ではなく立ち振る舞い、居ずまいで現されるべきだと思います。言葉でいくら取り繕ってもだめなのはもちろん、実際出来たとしてもそれを言葉で取り繕ってはその人の品位を落としてしまいます。この場合の品位は度量の広さだったり、底知れぬ才能だったり。

重歳を経て私もいささかの深みを身に付けられたらと思う今日この頃です。

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広きとは

眼至るる

際なれど

底の深みは

計る能わず

平成二十八年皐月二十八日

不動庵 碧洲齋