昨日は久しぶりに会社で使う靴を買い換えました。
靴は普通の靴ではなく、つま先が保護された安全靴です。
ただ工場内で作業する作業員たちと違ってそんなにたくさんの現場仕事をするわけではないので、普通の靴タイプで保護が付いている程度のもので大丈夫です。
輸出する製品のトラック積み込みや補用部品の発送の時ぐらいにしか履きません。
なにせ道路建設に使う機械ですから部品でも10キロ近い部品がゴロゴロあります。
今まで落としたことはありませんが、間違って落としたときのことを考えて履いています。
前に買った安全靴は別段どこかがほつれて壊れているわけではないのですが、サイズがあっておらず大きすぎる。工事現場の場合とかはやや大きめのサイズなのでしょうか。私の足のサイズは26センチですが、26センチの靴が大きすぎました。それと結構汚れてきたのもあって買い換えました。今回の靴は25.5センチ、しかし丁度良い大きさです。厚手の靴下を履いても問題ない余裕があります。ちと高めの靴なのですが、やはり履き心地が違います。
古い方の靴の裏を見ると、ほとんどすり減っていません。工場内は広くともアスファルトの部分は少ないのでそんなにすり減らないのでしょう。また、社内にいる時は歩行法にはかなり気を付けているので、踵やどこか一部がすり減るような歩き方をしません。自分の鍛錬方法や稽古方法がうまくいっているのが分かるとそれなりに嬉しくなります。
武芸においては稽古は道場の中だけではありません。
私的に稽古だと思うのはものを取るために起こす動作、歩行、着席状態、呼吸、目付、ものの考え方、食事、全部が全部稽古です。最近になってようやく、1日全部がようやくすっぽり視野と意識に入ってきた観があります。
昔の人はたぶん、かなり若い頃から1日がすっぽりと視野と意識に入っていたのだと思います。それは1日の流れの速さが違っていたからだと思います。これは昨日書いたブログにも載せています。
ともあれ、この1日の中で起こされる一挙手一投足全てに意識が行き渡り、しかも意識しない。隙のない動き=遅滞のない動き=自然な動きが、昔の人にはたやすくできたのではないかと思われます。現代の私たちには決して楽ではない。あり得ない程小さな機械をあり得ない程長い時間見つめたり、自然からするとあり得ない振動を起こす機械に乗ったり、自分が認識できないところで事態が進んだり、スピードが速くなり、情報がデジタル化されたことで、武芸者としての修行がとても難しくなってきています。もちろん、武芸の目的も難しくなってきています。
多少の誤解を恐れずに言えば、日本刀で人を斬るような事態は、これから先、未来永劫においてほぼあり得ないと思います。日本古来の武芸を以て集団的に人を殺さねばならない、例えば戦争のような事態も、先ず起きないでしょう。欧米ではそれが故に、そういった技術が失われてしまいました。ところがこの世界でも有数の平和国家では未だ、そのような技術が数多く研鑽されています。人は目的がないものに対してそう熱意は上げません。明治時代になってからも日本の武芸者たちには見据えられる何かがあったと言うことです。それがあって現代においても武芸を志す人は継続できているわけです。これは何度認識しても有難い限りではないでしょうか。
私が日々の生活において、隅々まで意識を行き渡らせたり、色々考えたり、もちろん稽古に汗を流すのは先人たちが私たちがこれを継続する理由、動機をはっきりしてくれたためではないかと思います。江戸時代から明治時代に移行した折は天変地異のような様相だったと思いますが、それでも武芸の道を絶やさず悩み苦しんだ後に、何かを見通し、修行を継続した先人たちは、どの流派の方であれやはり偉大です。そういう方々の志を受け、我々は次の世代に確実に伝える。この使命感は自ら発現したと言ったら傲りです。間違いなくこれは先人たちの志が我々武芸者の背中を押しているがためです。私はそう信じています。
平成二十五年神無月三十一日
不動庵 碧洲齋