ここ数日、ちと色々考えることがあった。
米国のSF映画/ドラマ「スタートレック」ではおよそ究極的に科学が発展している。
出演する人たちは皆、現在の米国に比べるとかなり、もしくはギリギリ健康そうな体型だ。
現実にそんなことはあるのだろうか。
色々なパターンを考えてきたが、どうしてもそういう風にはならない気がする。
例え科学力を以て肥満を解消しても必ずどこかで別のひずみが起る。
あれだけ科学が発展して、心身共に健全という構図がどうしても浮かばない。
総合的な視点を考えると、何がどう発展しているのか、最近は結構懐疑的になってきた。
東京から大阪まで、飛行機なら1時間、新幹線でも2時間半。200年前は2.3週間かけて歩いた。
「行くだけ」なら間違いなく機械を用いた方が便利に決まってはいる。
しかし「歩いて行く」ということは、その人が認識しうる早さで周囲が過ぎ去るということだ。つまり全行程をほぼ認識していること他ならない。
言い換えれば昔の人の生き方は完全にシームレスな生活で、出来事は全て、完全に自分自身で認識し得る範囲内で起っていた。よく考えるとこれはかなり凄いことではなかろうか。
今は違う。飛行機に乗れば時速1000キロで高度10000メートルをぶっ飛んでいる。新幹線でも300キロ、いや高速道路を自動車で飛ばしても120キロ。周囲の景色とてどれほど見えるのか。つまり私たちの生活は所々、認識し得ないような速度で移動しているため断続的になっていると言って良いかも知れない。私たちは連続して「生きて」いるのに認識は断続している。
明治時代初期に蒸気機関車程度に乗った人の感想が「目が回るほどの早さ」だったと読んだことがある。つまり蒸気機関車の速度は江戸時代生まれの人間からすると、周囲を認識し得ない速度で走っていたということだ。
情報も然り。
デジタルデータ化された音楽の音質は抜群とは言われるが、恐るべき事にそれは膨大な数の0と1が織りなしている幻想であって、本物の音楽ではない。スーパーマイクロレベルでは断絶した音データの連続体に過ぎない。
今私が打ち込んでいる文字も同じ。やはり0と1の置き換わったものに過ぎない。本物の文字ではない。それでも問題ない場合が多いのは間違いないにしても、手書きで墨筆なら、書いた状況、書き手の心境、経歴、性格まで分かってしまう。
その昔、戦国時代では情報戦や外交に文のやり取りをしていたが、たぶん我々が想像している以上に文(手紙)から多くのことが分かったと、私は想像する。我々がデジタルに染まりすぎて、アナログから得られる恐るべき深いデータが分からないのだと思う。
偶然にも今、これを書いているそばからこんなニュースがあった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131029-00000039-jij_afp-int
デジタルデータを否定するわけではない。
これがなければ我々はたぶん生きていけないし、便利この上ないことは間違いない。
私だって世界中に散らばっている武友、禅友とやり取りするのにITは必要不可欠なものだ。
とはいえ、近頃は日本人として、多少芸をかじっている者として質的にレベルアップをせねばならないと感じたときに、この命題を如何にクリアするかを思案していた。
色々考えて一番手っ取り早いのが「多少の不便を忍ぶ」ことではないかという結論に達した。
生活に大きな支障が発生しない程度の不便を忍ぶ。要らぬものを削ぎ落とす。
例えば、冷蔵庫や洗濯機、照明設備や給湯器は不可欠だが、テレビや食洗機はなくても良い。
(パソコンもしくは携帯電話は既に必須アイテムになっているのは驚きだ)
住んでいる場所によりけりだが、色々多角的に検討した結果、我が家には自動車すらなくとも良いという結論に達した。
今時は必要に応じてレンタカーやカーシェアリングができるところがすぐそばにある。
海外に住んでいると、日本の恐るべき便利さが身に染みてよく分かる。
およそ信じがたいほどに至れり尽くせりなのだ。しかも安全さも抜群と来ている。
こういう環境下で万事に感謝することはなかなか難しい。
先日、鎌倉建長寺に参拝した折、偶然にも建長寺管長、吉田老師の法話を聴く機会があり、そこでまさにこの話を説法していた。
便利を知るためには不便を知っていなくてはならない。携帯電話がある時代に生まれた人は、携帯電話のありがたさは分からない。まさにその通り。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と良く言われるが、今になってその意味が身に染みる。
今朝方、息子にこの話をしたところ、とてもよく理解した。
可能な限り生活の中で断絶を作らない努力は、きっと人生において何か大事なことを教えてくれると信じている。
平成二十五年神無月三十日
不動庵 碧洲齋