先日、坐禅会の折に老師から色紙を頂きました。
なんでも年始の揮毫の余りだとか(笑)。
ともあれ何となしに意味深な禅語だったので頂きました。
「求心歇處即無事」
書き下すと
「求心(ぐしん)歇(や)む處(ところ)即(すなわち)無事(ぶじ)」
求心歇處イコール無事、ということでしょう。
求心歇處(ぐしんやむところ)とはこれまた難しい命題ですが、同時にそれが人にとって一番の泥沼の原因だとも認識しているところではないでしょうか。
私的な見解ですが、求心そのものが悪いとは思いません。
純一に何かに求心することそのものには罪はありません。
多分、純一な求心三昧は即無事だと思うのです。
問題なのはあれもこれも不純に追い求めることだと言いたいのかも知れません。
故に何かを求めることそのものが悪いと言うよりは、万事妄想雑念なく純一に行いなさいと言いたいのかも知れません。
無事というのは事故がないという意味ではなく、そこが本来の自分とか、仏性とか、そんな意味だと思います。
野心のため、復讐のため、名誉のため、誇りのため、豊かになるため、義務のため、責任のため、自分の為、他人のため、正義のため、平和のため、そんなことで何かをするのは、片手に10貫の石を持って長駆するようなもの。
「ただ、する」「する」ことになり尽くす、なり潰す。
そこには自分はなく、他人も、対象もありません。
これでこそ両手を思うがままに振り、いかなる長駆も成せるというものです。
そしてそれが仏本来のあり方だと思う次第です。
SD110827 碧洲齋