不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」

太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」

http://www.taiheiyo-no-kiseki.jp/index.html

今週金曜日、建国記念日に公開さる映画です。

簡単にかいつまんで説明すると、サイパン島にて玉砕指令が下った後も生き残り、47人の部下を引き連れて終戦後も戦い続けた大場大尉という実在の人物の話です。彼は実際に生き残って帰国しました。主演は竹野内豊さん。

実はこの方、妻の親友のおばあちゃんの弟さんで、この映画を作る際、竹野内さんが大場大尉の墓にお参りに来たそうです。それで妻が興味を持った次第。この大場大尉は帰国後会社を立ち上げたり、地元の市議会議員などを務め、つい最近までご存命でした。どんなことを考えながら今を眺めていたのか、聞きたかったところでした。

実際、サイパン島は我が家にも深い関わり合いがあります。

私の母方の祖父は33歳の時、海軍の一兵卒として徴兵され、サイパン島増援部隊の輸送船団として出陣しましたが、サイパン島近海にて戦死したとのこと。妻にはせっかく日本語教師をしているからとサイパン島日本語学校の赴任を勧めました。息子がまもなく3歳になるときです。妻子とも約1年、サイパン島で暮らしました。

私も妻が帰国する少し前にサイパン島に行きました。私にとってサイパン島は永遠に南海のリゾート地ではありません。子供の時分からそこは「祖父が戦死した元激戦地」でした。行った先では可能な限りすべての墓や石碑に線香を焚き読経しました。

昨日、NEWS ZEROの特番で「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」を取り上げていました。息子が実際に泳いでいた海、遊んでいた町がかつて大激戦地で、大量の無残な死体が普通に転がっていた事実を目の辺りにして、言葉もなかったようです。

息子には日教組的な浅はかさ、愚かさを教えたくありません。私の体験などを踏まえてずばり言いますが、日教組日本教育のガンです。

戦争は正しいという考えの基で起こる、殺してはいけないという道徳の元で殺し合う、一生その難題を公案のように抱き、悩み考えていってほしいと思います。いいわるいと一言で切り捨てたらたぶん本気で叱るでしょう。戦争はそうできないところに深い罪業があるような気がします。

祖父が戦死したおかげで母は戦後10年ぐらいはかなり貧しかったそうです。中学校の時、同級生が白いご飯に鮭を乗せた弁当を持ってきた時分でも、母は芋だったときもあったそうです。そして掃除の時、間違ってその友達の鮭弁当をこぼしてしまったとき、その弁当の中身にショックを受け、かなり気丈だったにもかかわらず泣いてしまったことがあったと話してくれました。

最近、祖父はどんな気持ちで戦地に赴いたのだろうかとよく考えます。

祖父は日露戦争のすぐ後に群馬県高崎市豪農の次男か三男として生まれ、青春時代はまさに大正デモクラシーの時でした。

そういう風潮を受けたためか、土地を貸していた貧農の娘だった祖母を見初め、周囲の反対を押し切って結婚、そのまま家を出て花の都、東京で所帯を持ちました。

祖父が大人になったのはいわゆる軍国主義が台頭する前でした。

ちなみに正直に言って軍国主義が台頭した、という説も私は疑ってます。昭和12年頃の子供の教科書をいくつか読んだことがありますが、全く軍国主義とは関係ない内容ばかりでした。「今よりは軍国主義」と言う方がいたら私は笑います。

だから祖父たちは少なくとも戦争が始まったときは軍国主義思想などに関係のない普通の市民でした。

戦争が始まったとき、祖父には長女、次女、生まれたばかりの長男がいました。夫婦で下駄や草履の鼻緒などを作っていたそうです。

母の話だと、やや体が弱かった祖父は18年後半まで徴兵されず、その年の終わりにはじめて赤紙が来たとき、喜んでいたそうです。

そして半年後、サイパン島増援部隊を乗せた輸送船団の一員として乗り込み、サイパン島近海で米海軍艦載機の攻撃のために戦死しました。後で調べましたがそのとき無事にサイパン島までたどり着いたのは確か5.6隻のうち1隻だけだったそうです。

民間徴発の船なので勤務していた船名も分かりませんし、従って戦死した正確な場所も分かりません。私が幼少の時に軍服姿の写真を祖母の家で見た記憶がありましたが、顔は全く覚えていません。

いい年をした、世帯を持った大人です。

開戦の数年前から偏向した新聞を読んでいたとしても、それ以前の情報と世間で目にしている米国製の機械などを見れば、日米の国力差など分かっていたはずです。そして赤紙が来ていたときは実際に空襲も受けていました。

どうせ負けるのに、とりあえず勝てるから、負けるかもしれない、勝てるかもしれない、たぶんこういう視点はその場にいなかった人の視点だと思います。そこにいた人は家族に降りかかってくる災難をたとえ1秒でも遅らせることができたら、ただひたすらそれだけの気持ちがあったのだと思います。今、家族を持ってそれがはっきりと分かります。勝つとか負けるとかの結果ではないのです。そういう意味で負けると分かっていても戦わねばならないことは本当にあるのだと思います。キツい言葉ですが、自分の命と他人の命、未来と過去とを秤にかけて勘定するような人はお願いですから人間をやめてください。少なくとも日本人をやめてください。

私は日本語が好きな理由の一つは、英語と違い「未来形」がないことです。英語には「will」がありますが、日本語には正確にはそれに該当する概念がありません。学校では「~でしょう。」などと訳していましたが、実際にはそんな訳し方はしません。不思議ですよね。日本人は今その瞬間を懸命に生きる民族なのかなと思います。未来を狙ったり未来のために今を生きるのではなく、今この瞬間だけが本物で、唯一打ち込むべき対象だと捉えているように思えてなりません。結局未来などと言うものは現在の積み重ねです。私たちは今この瞬間を全力で取り組む以外に、よりよい未来などあろうはずがないと思うのです。

私の友人には多くの米国人、英国人、豪州人、ロシア人などがいます。彼らの祖父たちと私の祖父は戦ったかもしれません。しかしそれはもうどうでもよいことなのです。今この瞬間を彼らとの絆を確かめ、よりよいものにしていく、私はそこにだけよりよい未来があると信じています。

太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」是非観てください。

SD110207 碧洲齋