不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

臘八坐禅会 3日目

観音様はよくご存じだと思います。正式には観自在菩薩と言われます。

菩薩は修行が成就した人なので、観が自在な修行者と言うことです。

一つの事柄について、主観や希望的観測、固定観念や先入観、もしくは自分の知識に捕われない心で自在に事象を見て取れる人を指します。

心の中に自我があったらそれはできません。完全に自我を消し去ったところに観音様はいるのです。そしてそこが禅の境地でもあります。

臘八坐禅会 三日目

【第三夜】

第三夜示衆に曰く、如来正法眼蔵嫡々相承、是を伝灯の菩薩という。如来正法眼蔵よく護持する、是を護法の菩薩と謂う。伝灯護法猶お師家と壇越との如し。師檀合わざるときは大法独り行なわれず。而して護法を最上となす。昔、弘法大師嘗て大日如来に祈請して曰く、誰か是れ護法の最上なるや。如来告げて曰く、弁財天に若くはなしと。是れ伝灯は第一たりと雖も、若し護法の力なきときは則ち仏法只独り行わざる所以なり。是の故に護法を最上となす也。

坐禅は一切諸道に通ず。若し神道を以って之を云えば則ち身は即ち天地の小なるものなり。天地は則ち身の大なるものなり。天神七代、地神五代、並に八百万の神悉く皆心中に鎮坐せり。

此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば、神史に所謂る霊宗の神祭に非ずんば則ち之を祭る事能わず。霊宗の神祭は禅定に非ずんば之を祭る事能わず。脊梁骨を豎起し気を丹田に満たしめて正身端坐、願見耳聞一点の妄想を雑えず、六根清浄なる事を得るときは則ち是れ天地地祇を祭る也。一の坐と雖も其の功徳鮮しとなさず。是の故に道元禅師曰く、勤べきの一日は貴ぶべきの一日なり。勤めざるの百年は恨むべきの百年なりと。嗚呼おそるべく慎むべし。

【現代語訳】

第三日目の夜、大衆に示して言われるのには、釈尊の教えの真髄が師から弟子へと伝えられて来ている。これを伝燈の菩薩(修行者)という。また、その釈尊の教えの真髄を大切に思って護持する。これを護法の菩薩(修行者の面倒をみる人)という。伝燈と護法は法を守る「師家(法を伝える人)」とそれを支える「壇越(布施をする人)」との関係のようである。師家とそのために協力を惜しまない壇越とがうまく手を取っていかなければ修行はできないのである。そのようなことから、護法ということを最も大切にするのである。昔、弘法大師大日如来に祈願して、誰が護法の菩薩の中で最もすぐれているかと尋ねたところ、大日如来弁才天(水と豊穣の女神)に及ぶものはないといわれた。伝燈は第一であるといっても、もし護法の力がないときには、仏道の修行は決して成就できない。それで、護法を非常に大切にするのである。また、坐禅は一切の諸道に通じている。もし神道であったならばこの身体は天地を小さくしたものであるし、天地は身体を大きくしたものである。天神七代、地神五代並びに八百万の神(仏心・仏性)はすべて皆この心中に鎮座しているのである。このように、鎮座する神々を祭祀しようと思うならばそれに相応しい環境がなければこれを祭ることができない。すなわち、禅定(三昧の境)がしっかりと深まっていなければこれを祭ることができない。それには、まず腰骨を起し、背筋を伸ばして気を丹田に満たして正しく坐ることが大事である。見るもの聞くもの一点の妄想も交えないで六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が清浄である時、始めて天神地祇(全ての神々)を祭ることができるのだ。一回の坐禅といえども功徳は決して少なくはないのである。道元禅師は「勤べきの一日は貴むべきの一日なり。勤めざるの百年は恨むべきの百年なり」といわれている。ああ、恐ろしいことだ、しっかりせにゃいかんぞ。

SD101203 碧洲齋