不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

超光速宇宙艦の中でケンシロウを倒した!

タイトルで引かれた人がいたらスミマセン。全然関係ない話です。

「不立文字教化別伝」

禅では文字を以て伝承することをよしとしていません。が、実際には禅宗ほど多くの書物が残されている宗派もないでしょう。これはある程度坐っていると分かってくるのですが、言語が悪いのではなく、言語での媒介は事実、真実、真理どれでも構いませんが、かなり狭めてしまい、手掴みができなくなるという戒めとしていることを指し示しています。

事実を不完全ながら言葉にすることはほぼ100%可能ですが、その逆はかなり難しいものがあります。中には全く不可能な場合もあります。

中国と北朝鮮と韓国を指一本で潰滅させる。

アンドロメダ大星雲までひとっ飛び。

私は千年後の未来で一万年前の先祖を見かけた。

俺は100人のケンシロウよりも強い!

このブログのタイトルも含めて言葉としてはどこにも異常がありません。が、どれも少なくとも現代の科学では到底不可能なことばかりです。その辺りが文学などが発展する余地があるところなのでしょうが、人間がたやすく嘘をついてしまう所以でもあります。多分、太古の昔、元々は事実を伝達する手段として原始人たちが使っていたものを、智恵の実をかじってしまった(笑)原始人が悪用することに閃いてしまったのかも知れません。

実践、行動そのもので嘘をつくことは非常に難しいと言えます。故に言語より事実の体感は信じやすいと言えます。言葉の持つ特性として、人間の想像力が及ぶ限り、あらゆる虚構も表現できる、ということが挙げられます。同時にたった1つの単純な事実をも必ずしも正確に表記できるとは限らない、ということも挙げられます。

エスが甦る前に、最後に言った有名な言葉があります。

「・・・神よ、何故わたしを捨てられるのですか。・・・」

基督教を知らない人にとっては、絶望の言葉に聞こえますが、実はこれは旧誓約書・詩編の一節の冒頭で、神を称えている詩です。

エスは死ぬ間際にこれを語ったと伝えられていますが、聖書の編者は信者であればこのこの冒頭のキーワードで意味を把握すると考えたようです。

逆に言えば、信者でない人には全く逆に意味になってしまいます。

禅の師がよく「お経は悟ってから読むと意味がよく分かる。悟ろうと思って読んでもちんぷんかんぷんだ」と教えています。語意上の解釈ではなく、そのお経を体感として自分の血肉にするにはやはり坐れと言うことです(禅宗の場合)。そのための手順については膨大な量の読み物が準備されており、規矩なり公案なり呼ばれています。不立文字とは言いつつもそのようなテキスト類は善悪で色分けをする類のものではないと考えられています。方法論の一つと言えるかも知れません。

公案一つにしても命がけのエピソードも多数あります。タダの意味不明な話が何百年も残るほど、時間は甘くありませんし人間はバカではありません、多分。時間と空間を越えて今見ることができる先人たちの智恵は基本的にどの角度から見ても優れたものだと私は思います。私の場合は高校時代に読んだ諸子百家がかなり占めていますが、未だ読み返しても色合いが変化するだけで真理は不動の部分が多いように思います。それは時折読む聖書や武芸書にしても全く同様です。

ただそれらは記述の素晴らしさと言うよりは、生きている時間が伸びた分経験値が上がり、行間を読めるようになってきたと言うことだと考えます。故に功績としては良い文が半分、行間読みが半分と言ったところでしょうか。人生経験が増えると単語がキーワードになり、経験してきたことを織り交ぜた記憶と情報が閃きます。

実はmixiでは41人のうち会ったことがない方が5人、facebookでは54人のうち14.5人います。多分リアル友率はかなり高い方だと思います。私はmixifacebook内にて限られたメンバーには武芸に関することなどをよくしたためています。限定メンバーは基本複数回会っている人だけです。大事なことを書きたかったので、ある程度価値観を共有できる人、価値観を確認できる人、筆舌以上に私を知っている人だけに伝えたいと思いました。そして何よりも私の場合は世界中に武友禅友がいるので、上記の条件を満たした人であれば見聞したことや感じたことを一日本人武芸者の意見としてお知らせしたいと思い立ちました。だから行間がたくさん読める方という前提で参加して頂いています。こういう方々には気兼ねなくさらりと書いてもよく意を汲んでくれるので楽ができます。私は苦労が嫌いなたちなので。

ネット社会になってから非常に誤解・曲解・拡大解釈が多くなってきたと思います。日本語でもそうですが、英語で書いたときなどは時折泣きたくなるほどの断絶を感じます。そんな時は本当に言語の空漠感を思い知らされます。そもそも事実の体感は言語ではないのですから。それでも私は多分、門下の日本人の中ではかなり多くのことを書いている方ですし、実際、私のHPでも色々なことを日本語と英語で書かせて頂いております。私は読んで分かってくれとは思っていません。分かった人が読んで、最後の一角、画竜点睛になれば嬉しい限りだと思って書いています。過分に私が単に書き物好きということも否めませんが。その上で言葉というものの欠点を強く示唆し戒めた上で指南に当たって時々必要悪とも思える言語を用いて四苦八苦しているところです。

時間が時間なので眠気のため考えがこれ以上まとまりません。

SD101002 碧洲齋