不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

利休道歌 六

点前には弱みをすててただ強く されど風俗いやしきを去れ

茶道の所作ではなよなよとした弱々しい動き、さりとて武骨な動きも戒めています。

たぶん、我々が日常的にしている自然の動きをよしとしているらしいです。

自然の動きというのは見ている人にとっては一番ストレスがかかりません。

人間の演技で作られた優雅な動きは眼を見張らせるものはありますが、自然の営みの中で行われている、ごく普通の動きには遠く及びません。

何と言っても人間の演技というのは眼を楽しませるだけですが、自然の動きは全て、生きる事に直結しているからでしょうか。

単純に生きるための動きと言うのは無駄無理むらがありません。

禅的に言えば、生きるため、生を全うするためだけの動きには自我がありません。

生が生を輝かせるために活動しているだけです。

そこに自我が入ると、見栄えをよくしたいとか、失敗したくないとかいう念が入り込み、弱々しくなったり、卑しさが行動に出てくるのだと思います。

武芸でも、いえ、武芸だからこそ賤しい人間か否かはかなり重要な問題です。

賤しい人間の武芸は単なる殺人芸です。犯罪者予備軍です。

そういう事は決してあってはなりません。

故に拳や剣を交わす前に相手の本性を知る術として、相手の動きを知る事は重要なのです。

戦い始めてから分かるなどと言うのは下策中の下策です。

孫子にも「先ず勝ってから戦う」とありますが、まさにそういう事です。

むろん、門下、後輩が稽古にてどの程度緊張しているかも、これで分かります。

戦いに於いて、見目美しく、武張ったり、緊張したりすることは死に直結します。

だから自我を持つ事は死を招きます。

禅的に言えば戦いそのものになるという事です。

そうなればこそ、全ての動きは強弱を超えたところに現われるのではないでしょうか。

肩肘張らない動き、自我を捨てた動き、お茶のうまさはそんなところにあるのでしょうね。

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SD100822 碧洲齋