不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

鳥居強右衛門のこと

鳥居 強右衛門勝商(とりい すねえもん かつあき、天文9年(1540年) - 天正3年5月16日(もしくは17日) 私が初めて鳥居強右衛門を知ったきっかけは友人の「ときたひろし」氏がweb絵本を出版した折でした。私は彼の生き様に衝撃的な感動を覚えました。 http://tokitahiroshi.com/suneemon.swf 戦前は教科書でもたびたび紹介されたそうですが、戦後は思想の違いから知られなくなりました。非常に残念なことです。 この鳥居強右衛門足軽ですから若き頃の秀吉と同じ、多分農民だったのでしょう。このたった1人の足軽農民の活躍が長篠城を武田軍から守り抜き、織田・徳川連合軍を導き、武田軍を滅ぼしたと言っても過言ではありません。 1575年6月(天正3年5月)、長篠城は武田軍と対峙していました。武田軍15,000に対して長篠城主奥平貞昌以下、将兵は僅か500足らず。しかも長篠城は度重なる猛攻のため陥落寸前。援軍がいつ来るともしれず戦っていました。そこで貞昌は長篠近くに進出していた徳川家康に援軍を求めるための使いを出そうと思いつきました。しかし武田軍は長篠城を十重二十重に包囲しており、家康の陣地に辿り着くことはおろか、城から脱出することすら容易ではありません。貞昌の主立った家臣達も皆、事の重大さにうつむくばかり。そこで立ち上がったのがこの鳥居強右衛門勝商、足軽とも農民とも伝えられています。しかし危急存亡のこのときに、身分をとやかく詮索しているヒマはありません。早速貞昌は家康への書状を強右衛門に託し、強右衛門とその友人鈴木金七の2人は夜陰に乗じて城の周囲を巡っている川から城を脱出して、武田軍の包囲網を突破、無事に家康・信長連合軍の本陣に辿り着きました。 家康はこの勇気ある足軽に驚き、2.3日中に陣触れを出す旨を約束しました。強右衛門はたいそう喜び、家康が陣中で疲れを癒すよう勧めるもすぐさまその旨を仲間達に知らせるべく、友、金七に案内を託すとその足で引き返しました。片道約50キロです。 しかしながら帰路、強右衛門はあえなく武田軍に捕まってしまいました。 背後から攻め寄る家康信長連合軍のため城の攻略に焦っていた武田勝頼は、長篠城に向って援軍は来ない旨を城側に伝えれば助命と武田家の家臣として厚遇すると強右衛門に約束しました。強右衛門は表向きそれを受け入れ、長篠城を挟んだ対岸に姿を現しました。そして両軍静まりかえると命をかけて叫びました。 「家康様は来るぞ~、援軍は来るぞ~、必ず数日中に来るぞ~」 これに激怒した勝頼は強右衛門を磔にして槍で刺し殺してしまいました。 しかし強右衛門の命と引き替えに事実を知ることができた長篠城側はよく持ちこたえ、武田軍は背後から攻めてきた徳川・織田連合軍を迎え撃つためやむなく設楽原に戦場を移しました。そのため長篠城は強右衛門というたった1人の男の命と引き替えによって九死に一生を得たのです。 強右衛門は何を想っていたのでしょうか。強右衛門には敵とか味方とかではなく、敵にも味方にもある、何か大事なものを守るため、人として守るべきものを知らしめるべく命をかけたように思います。男の意地を通して、命を張って何か大切なものを世に知らしめたように感じます。 その後、鳥居家は侍に取り立てられ、子孫は家老にまでなった方もいます。多分、初代の強右衛門の教えを固く守ってきたのだと思います。鳥居家は今に続いています。 (写真説明)
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右側が長篠城側で左側が武田軍が布陣していた岸。強右衛門は丁度この場所から川を伝って城から脱出した。弓矢でも充分に届くほどの狭さです。
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強右衛門が実際に磔になった場所です。丁度この背後の林の向こう側が川を挟んで長篠城に面しています。私は線香を焚いて、懇ろに供養しました。
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元々墓所があった場所、新昌寺境内。磔になった場所のすぐ近くにあります。鳥居家が取り立てられ、転封した折、遺骨も移されましたが、今も立派な供養塔があります。私が訪れたときは整備中でした。
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現在の墓所がある臨済宗甘泉寺。なかなか立派な古刹です。隣は奥方の墓でしょうか。
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奥方の出身地に近い松永寺に安置されている強右衛門の木像。大切にされていました。 SD100103 碧洲齋