不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

執着から離れる

うつせみの

水面に映る

ありのまま

波が立とうと

風が吹こうと

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執着という言葉があります。

執という漢字の甲骨文や金文だと字源に近い意味が分かるそうですが、手枷に手を捕えて跪く人の形を象り、捕えるの意味を表わすそうです。

執着のない人はまずいません。深く修行をした禅僧ですら「修行」に執着しているとすら言えます。とはいえ、執着がよい方向に向っている場合はやはり社会にはよい影響をもたらしますから、それはそれでよいことです。才能があり、何かを解決したい、誰かを救いたいという執着は時として超人的な結果をもたらします。

問題は不健全な動機による執着。

権力欲、金銭欲などは概して男に多いでしょうか。

美貌欲は女性。

自己顕示欲や性欲はまあ男女共々。

自分の身ならず相手や周囲にも迷惑を掛けてしまいます。

執着は多分、欲求を追及することそのものではなく、視野狭窄に陥ることそのものではないかとも思います。

相手が未成年だったり人妻でいけないいけないと思いつつついフラフラと、というのは執着ではなく単に欲望を断てないというだけですが、脇目も振らず、後先を考えずにのめり込んでいる場合などは執着と言えるかもしれません。

恨み辛み怒りなどは本来、長続きするような感情ではないと言われていますが、それも何かのはずみでたがが外れるとその感情が永続してしまうこともあります。恐ろしいことです。負の感情をずっと継続した場合、多分精神面のみならず身体にも何かしら悪影響を及ぼすと思います。

禅などでは人が自然に持ってしまうたくさんの小さな執着をこそげ落とし、なるべく精神を身軽にさせる方法論の一つですが、私が思うに多分、人が一つ二つのことにのみ巨大な執着を抱くようになると、心が偏屈してしまうのではないかと思います。人体に例えると、小さな荷物なら結構な量になるまで持てますが、大変重たい荷物は普通、一つか二つしか持てません。しかもかなりアンバランスにです。そんな感じです。

歪んでいるわけですから五感から入ってくるものも皆、歪んで捉えてしまいます。そうすると一体、どちらが歪んでいるのか、何が歪んでいるのかが分からなくなりそうです。

人が人にマイナスの意味で執着した場合、どうなんだろうといつも考えます。

多分、流せた方が勝ちだと思っています。ぶつかり合ったらどちらも疲弊するだけ。淀みなく川の流れに身を任せるだけ。波が立っても風が吹いてもそのまま。

そういう心構えであればいくら執着されてもどこ吹く風というものです。ストレスとは流せず澱み腐ったものが蓄積された状態を指します。

川面に我が身を映そうと思い川面を見て、波立ったり風が吹いたりしてうまく映らないからと言って川面に手を入れれば余計に映らないもの。その川面に映っている歪んだままそのままが本来の自分と心得ます。それを本来あると思っている自分の顔と違うと妄想する。妄想と川面の顔とのギャップに苦しむ。本来あるものと思っているそれを希い求める虚しい所行が執着ではないかと思います。

ここ数日、訳あって強い執着を至近で見ているのですが、人が異常に固執するその様は、近くで見ていると異様です。本来心はもっと解き放たれて然りだと私は思っているのですが・・・。狂人は自分で狂人だと自覚できないと言いますが、狂人でなくともあまりに自我を自覚しようとするとそうなるのかも知れません。自らに執着する、自らの領域に執着する、異分子に対して過剰防衛になる、過干渉する、全て自我に固執するあまりに出るものだと思います。私の方は全て虚空のごとく受け止めていますので何のことはありませんが、空気は掴むことも殴ることもできないということを知れば、自分のバカバカしさに気付くというものです。

そういうものを反面教師にして我が身を誡めたいところです。

平成二十九年睦月三十日

不動庵 碧洲齋