不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

武門始め

私は小学校まではインドア派でスポーツは苦手でした。
中学校は家からすぐのところにあり、走れば30秒ぐらいで校門まで辿り着く距離でした。
現在はどうか分かりませんが、私の中学校は県下では大変厳しいことで超有名でした。同時にスポーツが大変強く、どの運動部も市内大会では大抵優勝していたほどでした。
特に柔道は全国でも強いことで知られていたようで、よく他県に行ったり、何度か海外まで行っていたと記憶しています。
(一度イランに行く予定だったが革命が起きてからは行けなくなった、という話が印象的でした)埼玉県では「模範校」として指定されていたほどです。

中学生になったとき体育の授業で「柔道」がありましたので、各自で柔道着を用意することになりました。
その時のことは今でもよく覚えています。人と格闘するなど、いじめに遭っていたときもやらなかった時分が授業でそんなことができるのだろうかと不安で一杯でした。
体育の先生は3年間ずっと同じでしたが、偶然にも柔道部の顧問でした。仮にF先生としておきましょう。そういうこともあって柔道の授業ではF先生から大変ていねいに教えてもらいました。
そのF先生、1982年に私が入学下時からすでに喉が渇いたら遠慮なく水を飲め、ウサギ跳びをしてはならん、などアドバイスをしていて、今では当たり前の事ですが当時では結構先進的な考えの持ち主でした。
運動中は水を飲むなとか、アニメ「巨人の星」にも出てくるように子供の頃からウサギ跳びをさせるなど、非論理的な運動指針が主流だった昭和時代当時、かなり合理的な方針を持っていたのもF先生を通じて柔道に興味を持ったことでした。よく本を読んでいた先生でしたね。そのため教え方が合理的だったのだと思います。

各学期の半分ぐらいでしょうか、そのぐらいの時間を柔道に費やしていた気がしますが実際どのくらいだったのかは分かりません。多分他の学校よりは柔道に時間を費やしていたと思います。ただ私には大変興味深い授業でした。初めの頃は受身や幾つかの基本的な技を学び、後半ぐらいから授業内で何回か試合をさせられました。初めはあまり気乗りしませんでしたが、その内段々興味を持ちました。

運動部の筋肉隆々のクラスメートでも簡単に投げられて負けることがしばしばありました。ちょっと機転を利かせた動きをすると相手がすぐバランスを崩すことが多かった。格闘技では身体能力が優れている人が必ずしも強いわけではないというのが面白く感じましたし、負けたときの悔しさもある意味心地よかった(笑) 柔道はまあまあ強かったと思います。うろ覚えですが負けるのは3.4回に1回あるかどうかぐらいだった気がします。相手を倒したときは我ながら喜びと驚きが入り交じったような気分だった記憶があります。

それを見ていたのか、F先生は私が2年生になる頃まで時々柔道部に入部してみてはと何度か誘ってくれていました。今思うと先見の明があったのでしょうか(笑)
2年生の後半ぐらいからはいわゆる厨二病で体を鍛え始めました。そうそう「北斗の拳」が流行りだしたのもこの頃だったでしょうか(笑) もちろん単行本は全部買いました(笑)

3年生になると書店で空手などの本を買ってきて1人で稽古してみたりしました。武道とか格闘技にはっきり憧れを持ったのは中学校3年生ぐらいだったかと思います。あ、3年生でも苛烈ないじめに遭いましたね(笑) 発端はいじめられているクラスメートをかばったからです、懲りない性分です。弱いくせに正義感が人一倍強かったのが祟りました。大人しそうな女子生徒までが私の机を足蹴にしたりするのを見ました。まあ今は立派な母親になって子供には「いじめなんかしてはいけませんよ」とか言っているんでしょうけど。

高校に入学すると格闘技好きのクラスメートが数人いたのでグループで公園に行ってトレーニングをしました。この頃はなかなかおもしろかったですね。
しかし結局我流では限界があることをみんなで悟り、それぞれ興味のある格闘技の道場を探すことになりました。私は年末に武神館なる流派を知り入門したい旨手紙を出し、宗家から返信を頂きました。

それで翌年1986年2月に正式に入門して今に至っています。

実は今朝、ふと初めて柔道をしたときの夢を見たので書きたくなった次第です。

令和五年卯月七日
不動庵 碧洲齋

私は木造校舎最後の学年でした。これ以後は新築された鉄筋コンクリート校舎になりました。