不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

質量保存の法則に想うこと

質量保存の法則という化学の法則があります。それは「化学反応の前後で、それに関与する元素の種類と各々の物質量は変わらない」という法則です。何かが燃えて灰になっても、それは別の物質に変換したり結合したりしただけで、その質量そのものが煙のように消えてなくなるわけではありません。もう少し詳しく言うと、この宇宙の中で例えば銀河系の数百個程度がなくなったとしても宇宙全体の質量の総量は変わらず、単純に別の物質になるというだけです。

 

生き物は死にます。人が死ぬとその遺体は火葬に付されて骨になり、骨壺に入れられて墓に納められます。火葬に付されたときに体の水分の分子は空中に撒かれて肉だった物質も灰になったり炭素になったりします。骨は骨壺の中なので長い間そのままかも知れませんが、今私たちが吸っている空気、飲んでいる水の分子には、今まで死んだ人の体の一部だったかも知れない分子が含まれているはずです。

 

私の禅の師匠が良く言います。人が生きている、人が死んでいる、それは単にそのひとつのものの現れ方の一側面に過ぎない。人がいるというのも仏の在り方の一つに過ぎない。科学的に言えば原子とか素粒子が何かしら縁で集まって形を為して、それがたまたま人になる。たまたま道端の石ころではなく、ネコになる、そんな感じです。死んだ人間もこの自然の中に薄まっているだけです。なのでその根本は生死を問わず、生物の高等下等を問わず等しく全て尊い。これを仏と見做しているようですが、科学の原子の在り方に似ています。確かにそう考えると万物はおしなべて全てが尊く感じられます。日本人の生活様式の在り方に似てます。

 

宇宙にあるあらゆる物質は原子から構成されていて、もし縁というものがあるのなら、何かのきっかけで任意の形や機能を持ち、自然のシステムの中で十全に働いていることを指すのだと思っています。それが例えば人だったり樹木だったり、惑星だったり。故に人が死んで焼かれた後は別の機能をするために変態する、だからやはりある意味「それ」は永遠に消えたりはしない、そんな気がします。

 

人の心は何故か少し「ノイズ」が入っています。典型的なのは「自分がいる」という感覚だそうです。もう少し詳しく言えば自他を区別する「分別の心」と言うのでしょうか。自他と区別すると自分だけがあるように錯覚してしまいます。他の動物のように心が本能にピタリと寄り添えず、常にノイズが入った状態で生きているから色々な苦しみが湧き出ています。物質の質量保存の法則のように、心もまた本来、仏そのものであるはずなのに、分別心を持ったばかりに、元のそのものに寄り添えなくなり、その忘れたモノを取り戻すべく苦労をする。それを本来のそのものに戻る為に行うのが禅の修行だと考えています。

 

一在家が昼寝の後にふと思ったことを書いただけで深い意味はありません。

 

令和参年卯月二十三日

武神館 不動庵道場

不動庵 碧洲齋

 

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