不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

碧呟聲 -強さの定義-

これは武芸者を悩ませる要素ではなかろうか。 武芸においては相手を倒す、完璧に我が身を守れる。 ひいては家族や関わる人を守れるかどうかではあるが、現代、特に飛躍的に安全性が高い日本においては映画やドラマのように悪人相手に対決などというシーンは一生に一度あるかないか。しかもあったとしてもほんのちょっとでも過度に痛めつけようものなら所属する流派や団体に大いに迷惑をかけてしまう。 武芸者の多くは中二病まがいの男が多いものだが(私もだ!(笑))、日本社会の現実はそういう体系的暴力をほぼ必要としない社会と言える。もちろん、暴力がモノを言う国もまだ世界には多い。 そういう意味では江戸時代も似ているかも知れない。江戸時代の武士も開府や幕末維新を除き、本当に人を切ったことがある侍は一体どれ程いるというのか。特に城詰めの武士などは今の象徴勤務の公務員と同じだ。中には使いもしない刀を差して歩くのがバカらしくて竹光(刀身が木製または竹製)にして登城していたとか。大小合わせれば1.5キロはあるので、江戸の泰平ではこれほど無駄な装備もない。汗を流して武芸の稽古に励んでいたのは今よりは遥かに多いとはいえ、多分我々が想像するほどではない。 太平の世における武芸の強さをどのようにするか。まるで禅問答のようである。 平和な世の中に在って、多分強いと言う定義が最も幅を利かせられるのは「財力」や「名声」かもしれない。 あくまで例えだが、頭が禿げて腹が出ているヲヤジの年収がが1000万円と、貧乏にヒイヒイ言ってあくせく稼ぐ武芸者の年収300万円がいたとしたら、一体どちらが強いのか。そのヲヤジさんが多少の経済不況などもものともせずに家族を守れたらこれはもう貧乏武芸者よりも強いと言える、悔しい話だが(笑) 現代的意義において武芸を嗜む者は、その哲学や精神を自らの労働や人生に応用して財政的もしくは精神的な豊かさを産まねばならない。そしてそれを周囲の人たちにも波及させねばならないと思っている。武士は階級であるが庶民の手本でもあった。明治以降、階級としての武士は消滅したが、驚くべき事に今や世界中に「武士」がいる。「武士」であろうとして日々精進している外国人たちが多く居る。だから武士の生き様はタダの階級層以上のものだったと言える。その武芸における根源のようなものを波及させることができる人は強い、私などはそう思っている今日この頃である。 令和二年睦月七日 不動庵 碧洲齋 DSC_2728.jpg #武神館 #道場 #入門 #埼玉 #草加