不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自由

辞書で調べると;

1.自分を意のままに振る舞うことができること。またはそのさま。

2.勝手気ままなこと。わがまま。

3.哲学で消極的には他からの強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。

4.法律の範囲内で許容される随意の行為。

とある。

上記の内、1.2は本来の意味で3.4は制限がある以上、自由ではないと思う。

自由の原典は複数説あるが、公式なのは幕末維新で英訳のfreedomやlibertyを和訳する際に必要になったとのこと。Wikipediaを読むとなかなか先人たちは訳語に苦労したらしい。

結論から言えば自由というのは一種の理念であってしかも達成できないものである。

人は産まれてから死ぬまで絶対に自由たりえない。必ず社会の規範に縛られる。よくよく考えれば誰にでも分かろうものだが、我々は理念を想い妄想して当てが外れる。上記で言えば3.4が本来freedomやlibertyを指すものであり、完全な自由など存在しない。

自由という単語自体は江戸時代にはすでにあったようで、主に2の意味だったそうだ。当時の日本人からすればあまり名誉な形容表現ではなかったようで、文献にはあまり見られない。今でも決してほめられた表現ではない。日本社会で生きるためにはゆゆしき姿勢であるためだ。

本来「自由」という言葉は、仏教用語で「自らを由(根拠)とする」と読む。

自らで決めて行動した以上は、いかなる結果になろうと全て事由は自らに起因するものということ。他人に原因を求められない事を指す。

論語に上手く自由を表現したものがある。

論語』為政篇に曰く

「吾十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命を知り、六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。」

この中の最後、「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」これが本来あるべき社会における自由ではないかと思う。好き勝手なことをしつつも決して社会規範を超えることがない、恐らく人間が求めうる最上の自由とはこのようなものだろう。

ないものねだりを欲しがり、求め続ける人間、これが我々の性なのだろうかと時々思わずにはいられない。

令和弐年睦月二十八日

不動庵 碧洲齋

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