不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

1995年

1995年は公私ともに色々なことがあり、大変良く覚えています。

まず1月、正月が明けて間もなく阪神淡路大震災が起こりました。この日本で数千人規模の犠牲者が出て、言葉を失いました。私は高校生ぐらいの時からサバイバルキットとか集めるのが好きで、キャンプなども良くしていたこともあって当時の日本では珍しいアイテムをたくさん持ってました。以後現在に至るまで緊急時の備えは常に抜かりなくしてます。

3月にはあのオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きました。丁度私はその頃、アルバイトをしながら日本語教師養成講座に通い日本語教師になるための勉強をしていましたが、事件が起きたまさに日比谷線をいつも使ってました。幸い平日はアルバイトをしていたので事なきを得ましたが、これまたこの日本でテロが起きるとは思いもよらず。言葉を失いました。

7月に新宿にある日本語学校に勤務することになりました。留学から帰国してほとんどすぐ日本語教師という職に興味を持ってすぐに日本語教師養成講座に通い始め、めでたく修了して、そこの日本語学校に就職し、遅まきながら初めて社会人になりました。

・・・が、9月後半にはすでにオーストラリアに旅立ちました(笑) 現地小学校でインターンを3ヶ月した後、メルボルンの直営校にて勤務ということでした。最初は3ヶ月の予定でしたが、期限になる度に体調を崩すスタッフがいて、結局9ヶ月、インターンとトータルで1996年夏頃まで1年もオーストラリアにいました。海外で働くという体験は大変貴重なものでした。大企業ではなかったのでそれはもうあり得ないような苦労ばかりでしたが、ともあれなかなか得難い体験でした。じつは後日また豪州に半年ほど赴任したので、トータル1年半、オーストラリアにいたことになります。留学と赴任を合わせると20代の半分は海外にいた計算になります。だから90年代の日本の情勢には実はあまり詳しくないのです。

1995年は終戦から半世紀という節目でした。もし戦争がなかったのなら、という仮定は無意味ですが、世界中の犠牲者数は数千万人を下りません。この貴い犠牲を想ったとき、私たちは平和な世界を目指さなかったらこの犠牲者たちは報われないと思います。

そういえばWindows95が発売されたのもこの年でしたね。赴任前にはマックやWindows3.1に少しだけ触れました。家にはワープロがありました。初めてまともに触ったのは実は英語版のWindowsでした(笑) しかし当時はほぼアナログでしたので自分で持って来たワープロで教材を作ったり書類を作った気がします。で、一部パソコンという程度。周囲(メルボルン)はWindowsフィーバーでした。日本でもそんな感じだったと聞きます。

高校生ぐらいの時から時折、警句や短歌、詩を書いたりしていました。

阪神淡路大震災の時のものはありませんでしたが、1995年の大晦日に書いた詩があります。ホストファミリーとニューイヤーパーティーをしていた折、ふと思い付きで書いたものと記憶しています。改めて読むとこの年が如何に起伏に富んでいたかが分かります。

歳を顧るに

我言うところ知らずして

酊酩し落涙す

禍福移ろう様

将に千丈谷が如し

25年も前の句ですから雑なのはご勘弁下さい(笑)

令和二年睦月十七日

不動庵 碧洲齋