不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

いじめ問題の闇2

先日の続きですが実際問題、いじめというのは減っているのでしょうか?

こればかりは公的に調べているのと実数はかなり乖離していると思います。

多分、推移としては減っているように思いますが、もしかしたら1件1件は逆に深刻になっているのかも知れません。

昨今はインターネットという便利なものがありますから、執拗さなどはそれ以前の比ではないと思います。

私自身経験があるので分かりますが、クラスメートにも先生にも親にも話せないという、どうにもならない状況に追い詰められると本当に学校に行きたくなくなります。幸い私は不登校にはなりませんでしたが、毎日が憂鬱でした。

何が嫌かというと、「いじめてない他の人たち」。積極的にいじめに参加するでもないが、さりとて救いの手を差し伸べるでもなく。所謂少し離れた黙認している人たち。それでいじめている人たちが去って行くと何事もなかったかのようにしているというのも気が重いものでした。ある意味いじめた人たちよりもこの人たちの方が悪質だったのではないかとすら思ったりします。

いじめられる側としてはもしかしたら何か原因があるのだろうと思いますが(実際色々な原因があるようですが)、私の場合は番長の機嫌に一度触れると、その取り巻きたちが必死にいじめをしてました。機嫌に触れると言っても何かしたでもなく、本当にその場の気分だったように思います。そもそも学校ではずいぶんおとなしかったですし。

現在、学校側ではずいぶんと色々なケアが行われていて、それ程ひどいものは少なくなってきたようですが、減った分、陰湿なのが増えたとか、そんなものかもしれません。ネットで色々言われたりしたら確かにもっと気分が重い。(逆に本音も言えるとも思うのですが)

前出の教育学部出の知人はやはり「いじめられる側の問題」と重ねて断罪してました。いじめられる側が相手の気分を損なうようなことを言うからそうなるのだと強調してました。正気の沙汰なのかどうか測りかねますが、常識で考えたらいびつだとは思うのですがどうでしょうか。多分世の中、教育行政はそのように考えられている部分も少なくないのだろうと想像します。現実にこの公立の教育機関に勤務している人がそう言っている以上は教育行政はそういう含みを持たせて行われているはずです。なかなか人の痛みを理解する教育というのは難しいと思います。

学校教育の限界というのも弁えているつもりです。やはり家庭の教育こそ重要な要でしょうか。中国ではありませんが、昨今一人っ子が多いだけに小皇帝のような教育がされていないか、心配になることもあります。ある家庭ではゴミ出し、風呂掃除、食器洗いのたぐいを子供にさせただけで逆上するような親もいるようです。私が子供の時は毎朝ホウキで二階から玄関まで掃き下ろしていたものですが。今ではそういうような家事はさせないのでしょうかね?

つれづれ思いつくままに書いてしまいました。

令和元年皐月二十三日

不動庵 碧洲齋