不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

稽古における型の役割

武芸における「型」は、ITに例えると圧縮したデータのようなものです。

先人たちが後世の継承者たちにできるだけ濃密にした情報を効率よく伝承させるため、型という固まりにして今に伝えています。つまり型の中においては普通の技よりも一挙手一投足全てがより多くの意味を為しています。

初心者では型を実戦に使うことは難しいかも知れませんが、上級者は実戦でも型を使いこなせるようにしたいものです。

稽古における型稽古、取り決め稽古で重要なのは型における技の「軌跡」がどれだけ正確か感じることです。もちろん軌跡だけではなく間合や拍、力加減、速度など、全ての条件が正しく一点に集中できているかという事です。初心者たちは上級者たちのそういう所を見て学ぶ、ということができます。

時折「それでは全然技が掛からない」という人がいます。実際技のかけ方が悪い場合を除き、大方は身体を固くして抵抗している方です。もちろんそういう場合では技は掛かりませんが・・・逆に言えばそういうでくの坊状態では技を掛けるまでもなく簡単に倒せます。身体の固さと柔軟性は反比例します。当たり前の話ですが。身体をこわばらせていたら技を掛けるまでもなく楽に倒せるものです。

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先日、たまたまそういう人に技を掛けたのですが、本人は頑として動かず(笑) 仕方ないので束ねるほど伸びきった髪を掴んで首に手刀を軽く当てて投げ。2度目もまだ懲りないようで、あり得ない話ですが太い銀のネックレスをしていたのでネックレスを締めながら指を立てた状態で首筋のツボを一撃。本人はグェッとなって咳き込みました(笑) そういう不用意な相手を本気で倒そうと思えば手はいくらでも事欠きません。技を磨こうとするから難しい。なかなかそういう人は何がどう問題なのか、理解しないものです。

稽古における動きは抵抗して得られるものではないのですが、多分これはあまり口でどうこう言うものではないのかも知れません。私も10代のある日、何となく気付きました。受けと捕りの関係性が自然と分かれば稽古も面白くなり、また一段上った感じになります。つまり効果的な稽古をするには核の部分で「分かる」相手とすることが肝要かと思います。なれ合いはもちろん誡めるべきですが、稽古を実戦の一部とか、そういう勘違いをしている人と稽古をしてもあまりいいことはありません。

・・・というか、そこがスポーツ格闘技と伝統武芸の違いではないかと思った次第。子の違いを認識せずに「古武道は型ばかりで使えない」という論調の方はさしずめ義務教育で学んだことは社会で使えないと言っているようなものだと思っています。先人の知恵をどこまで解読して体現するか、というのが伝統武芸を学んでいる人たちの責任と言えます。最近は生活環境や教育の変化によって、そういう能力に長けた人が少なくなってきているようにも思います。

平成三十年神無月朔日

不動庵 碧洲齋