不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自意識について

太古の昔、原始時代では「自分で自分を見る」ことができたのは波が立たない水面だけでした。それから何万年か後、多分自意識が強かった人でしょうか、石を磨いて自ら映す事を思い立った人がいたようです。 考古学的に一番古いとされている鏡はトルコにあるチャタル・ヒュユク遺跡で新石器時代後期に当るそうです。ここで黒曜石の鏡が発掘されました。ざっくり言えば今から1万年ほど昔のことです。
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その後人類最初の金属、青銅が扱われるようになると銅鏡が普及し始めましたが現在一番古い銅鏡はエジプトのもので今からざっくり5000年ほど前のことです。とはいえ、鏡はつい100-200年ぐらいまではかなり高価な物で、全身を映せるような鏡、姿見が普及したのは多分100年ではないでしょうか。よく時代劇では長屋の貧しい娘が顔の一部しか映らないような、ごく小さな鏡で好きな男のために一生懸命化粧をしているシーンがありますが、日本では多分、顔が丸々写るような鏡を一般人が持てるようになったのは明治も後期ではなかったかと思います。 故に日本では三種の神器の一つに鏡があるように、自らを映す道具は霊的な意味に於いて特別なものと考えられていました。 時代が下って150年ぐらい前からはカメラが普及してきました。100年ぐらい前からは静止画ではない、動画も映せるようになりました。 少し話が逸れますが、大正デモクラシーなどは鏡はもちろんのこと、写真や動画によって自分を客観的に見ることができるようになった結果、自意識、自分の権利に目覚めたのではないかとすら私自身思うことがあります。考えすぎかも知れませんが。 前世紀末、ITが普及すると今までのフィルムカメラに加えてデジタル画像が飛躍的に増えてきました。私が最初に買ったデジカメは1998年初頭だったと思いますが、その時の画質はわずかに37万画素、今ではスマホのインカメラの1/20にも満たない性能でした。しかしながらフィルムカメラにはなかった「いつでもどこでも誰でも」という汎用性の高さから性能はもちろんのこと普及も恐るべき勢いで増え、今やスマホを持っていれば鏡像どころか他人から映ったように左右逆対象ですらない画像をリアルタイムで自ら見ることができます。 「インスタ映え」という流行語になりましたが、自らで自らをいかに見栄え良く撮影するか、そういう技術が競われている今日この頃です。 私の禅の師匠は良く言います。 「他人に対しては『する』ことができても自らに対しては「『なる』ことしてできない」 私たちは世界中全ての人たちの顔を直接見ることができますが、世界で唯一、自らの顔だけは直接見ることができません。 自分の寝顔を見ることはできませんが、寝ることはできます。 自分の死顔を見ることはできませんが、死ぬことはできます。 この世界で自分という主観の対象を客観の対象と比較することは長さと重さを比較するようなもので、そもそもがスケールの概念が違うものを較べているという事でした。 禅では比較対象としての主体の存在を嫌います。全宇宙の一部として、ある意味パズルのピースのように存在する(故に正確には存在という言葉もおかしいですが)のが自分であって、いわゆる仏とは森羅万象「全部ひっくるめたもの」を指しています。
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基督教でも無償の愛とか言われていますが、恐らくどの宗教でも(厳密に言えば仏教はreligionから和訳された宗教とは違うと思いますが)究極的な意味ではどれも同じように思います。自らを虚しくして他に尽す。これが本来あるべき姿のように思います。もしくは他の獣のように我無くして我を生かす、とか。獣だったら少なくとも自分の生存拠点から遠く離れたところにまで行って、よく分からない理由で人を大量殺害することもないでしょう。もちろん妄想で殺したりすることもないでしょう。シンプルに生存を脅かす対象に対して最小限の暴力行為をする、人間社会よりずっと平和的です。 禅の師匠も何か事に当って一番邪魔をするのは自らを勘定に入れてものを考えてしまうこと、と言っていました。須く誰もが自分を勘定に入れずに事に当れば、多分世界は大変素晴らしいものになるといつも妄想しています(笑) なかなか誰にでもできないことですが。 故に「自らの存在を意識する」ことぐらい、世に悪いことはないという事になるでしょうか。 そういう意味で石を磨いて自らを映すような異常な執念を燃やした原始人からインスタ映えに異常に執着する現代人に到るまで、自意識を過剰に意識する人は多分、世を乱しているというのか、社会をいささか紊乱しているというのか、そう思うことがあります。私の知り合いにも自分自身を撮影することに異常な執念を燃やす人が一人二人いますが、時々息が詰まりそうになります。まあ、正直に言えば私だって禅に出会う前までは自意識過剰だったと思いますが(笑)。
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本来自分は「なる」ものです、それを無理矢理対象化して「する」ものとして捉えようとすると多分、心のどこかに歪みが出てくるのだと思います。少なくとも私はそう感じています。なので基本自撮りはあまり好きではありませんし、自分を撮影してもらうのもそれ程好きではありません。まあ、たまにカッコ良い写真は撮ってもらいますが(笑) 現代社会に於いてはITによって引き起こされがちな自意識への過剰な執着に、よくよく気を付けたいものです。 平成三十年長月二十七日 不動庵 碧洲齋