不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

老いて尚曇らず

当流の春日部での稽古に、時折ふらっとやって来てじっとその様子をご覧になるご老人がいらっしゃいます。多分年の頃は80は優に超えているぐらいでしょうか。

実はこのご老人、以前当流の隣で稽古をしていた合気道養心館の先生です。

そしてこの驚くべきことにこの先生は養心館始祖、塩田剛三先生の数少ない現存している直弟子です。

そんなスゴイ方が当流の稽古をよく見にいらっしゃるので私の先生も同門も大変光栄に思い、厚くもてなしをさせていただいております。

何度か他流の稽古を見ること、取り分け当流の稽古を見ることにどんな意義を見出しているのか尋ねたことがあります。曰く「今の合気道は全然ダメだ(もちろんそんなことはありません!)。おたくの流儀は世界中から色々な職業の人がやって来て日進月歩で磨かれている。今でも成長している珍しい流儀だ。何と言っても実戦に耐えられる動きをしている。」というような言葉を頂き恐縮したことがあります。重ねて申し上げますが、こと養心館合気道は大変優れた流儀だと認識しています。

普通、人は歳を取れば心の柔軟性が失われます。長く継続しているものがあれば自分がしているものこそが一番だと、信仰心のような信念が湧き、凝り固まります。自分は長く学んでいるから教えることはあっても学ぶことなどない、大抵はそう錯覚してしまうものです。

実際のところ、私の見解では流儀別で強い弱いはあまりなく、個々のスペックに因るところ大です。しかもそれとてタイミング、条件次第では肉体的、技術的に劣っている者でさえ勝てる機会はいくらでもあります。つまり勝負は常に流動的です。そしてその流動的なるものを制するには技術や知識ではなく、柔軟な思考や観察眼が肝要ではないかと思います。

人間誰しも歳を取れば年の功や門内の権威、段位、武歴、知識の量、などなど、自負したくなるものがやたらと増えて、入門当初のような真っ新な目で見ること、先入観に曇っていない目で見ることができなくなります。そしてえてしてそんなところに勝敗の要が潜んでいたりします。

相手や他流が優秀かどうか、それどころか相手が人か動物か自然現象かどうかに全く左右されずに、対象から優れた原理法則を見出す、これができる人が真に強い者と考えております。

私も80を過ぎて尚、他流他人の優れたところを見出そうと努力するでしょうか。いつも考え行いを慎むこと多々あります。

曇りなき眼でものが見えるよう、日々精進をして参りたいところです。

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写真は塩田剛三先生

平成三十年葉月朔日

不動庵 碧洲齋