不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

それは神授のものか

以前書いたものを加筆修正したものです。最近のホットな時事に対する、ネット民のコメントについて。

狂信者とは信じている対象の正邪を問われるものではなく、信じ方と実践の仕方に問題がある故に狂信者と呼ばれると私は心得ています。

自分の正義が正しいと確信したときほど人は残忍冷酷になる傾向があります。我に正義ありと確信したとき、人は何でもしてしまう傾向があります。実際に人を殺傷することは希でも、ネット上ではわが正義を信念に対象を徹底的に口撃したり、とか。ま、私も若かりし頃は思い当たること、多々ありますが。

実際世の中はある程度バランスが取れていて、残忍非道と思われる事件がある一方で、それと釣り合いが取れる善良な行いもあるものです。バランスの天秤の長さというのか、その両端があることを知っている人とそうでない人の差は大きいように思えます。

特に日本に生まれて生活していると単一民族、単一言語、単一国家である上に世界最古の継続的国家である故に、それ以外の国と較べてずれていると思えるような部分が多々感じます。

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私も聖者ではないですからあまりに理不尽に私自身や日本を非難されれば気分悪いしある程度反論もしますが、イコール神授の正義と思わない理性は持っているつもりです。どんなに理不尽であっても必ず相手には相手のリクツがあるもの、テレビの特撮ヒーロー番組に出てくるような純粋な悪などありません。これが世界の成り立ちという事で。そういう意味に置いて欧米流に相手をツブすのではなく調和させるのが日本らしい日本のやり方に思えるのです。

自分の怒りは正義の怒り=神授性があると錯覚する方は徳に注意されたし。

怒りを感じる場合、冗談めかして面白おかしく相手を揶揄する余裕が持てる人は、日頃から自分の正義すらも点検できている人かもしれない。逆に口汚く罵ったり、容赦ない言葉を浴びせる人は心に余裕がなく、視野が狭いのかも知れない。私のささやかな国際的な経験からするとそういう人は世界を俯瞰できない人であることが多いように感じます。

当流の道場訓にこんなものがあります。

「悲しみも恨みも自然の定めと思い唯不動心の悟りを得るべし」こういう視点で観た物事は、もっと澄んだものに見えるのではないかと考えています。

平成三十年文月二十八日

不動庵 碧洲齋