不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

技の稟性

今年は武門に入って32年になりました。

とは申せ長いだけで未だ門下の末席を僅かに汚す程度の身分。上にも横にも、そして下にもそれはもう凄い人ばかりで、我が身の置き場に困るほどですが、ふと思ったことを徒然と。

あくまで私個人の感想として。

技を見るとその人の人となりがかなりよく分かるようになりました。

組んで稽古した場合は更に。

言葉を交わしてなくともその人の性格や資質、指向性などが分かります。

もっと上級の人もいますからそういう人たちはもっと高い次元で分かるのかも知れません。あくまで私程度のヘボ師範の戯けた感想です。

画像

技量の上手い下手という見方はもちろん、伝統芸能を稽古している身として重要であり、常に念頭には置いてますが、この歳になるとある意味更にウェートが高いのがその人の立居振舞、仕草や稽古の身なりなど。

技はよほどのことがない限りは必ずある程度は上達します。上達の早い遅いはありますが、そのままであることはまずありません。だから技量の上達そのものにはそれ程関心がありません。

稟性のある技、気品のある技、優雅な技、ただし見せかけではない技、これを体現できる人は間違いなく人格者です。

ある程度のレベルの師範がすべきはその人の人となりに適合した技が繰り出せるよう稽古することだと思うようになりました。

例えば正真正銘なかなかの人物の技が荒かったり、力業であったとしても、それは修正することができると信じています。その人の天性に叶った動きに修正するという意味で。

逆に心が卑しい、心が貧相な人の動きというのは見掛けが良くなっても早々直るものでもなし。間違いなく心の在り方が技に出ます。

つまり、日常の所作、日頃考えている考え方、道徳観、それらに根ざした観察力や思考能力が身体能力と相俟って武技が表現されるわけです。故にある程度まで来ると、道場内だけで一生懸命に汗をかいたところでそれ以上は質的変化を遂げない限りはタカが知れた程度しか技量は上がらないと考えています。

巧くても下品な技を繰り出す人との稽古は、なるべくしたくないと私は思います。

こちらもお金を払って貴重な時間を使っているのですから相手を選び、有効に使いたい。

ふと思ったことです。

平成三十年弥生五日

不動庵 碧洲齋