不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自ら道を拓く

大上段に構えたタイトルになってしまいましたが、別に何と言うことではありません。

私が武神館の門下に入ったのは16歳の折。きっかけは書店にあった、たった1冊の本を本当に偶然に見つけたこと。そしてそこに至るまでイジメに遭ったり、友人らと格闘技のまねごとをしたりしましたし、きっかけの1冊を得てから宗家初見先生に手紙を書くまでも2.3ヶ月もあったように思います。

想いを致して偶然が重なり、熟慮してから筆を執り、文をしたためる。そしてこれまた運良く良師に出逢う。今週は月曜日に大雪が降りましたが、私が初めて道場に出向いた昭和61年2月22日も数日前に降った雪が多く残っていました。

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昭和の求道とは万事こんな具合に万事ノスタルジックでアナログながら、思い返せば一つ一つのプロセスが大変濃いものだったように感じます。爾来30有余年、色々な場所で教わり教え、細々と門下の末端の座を僅かに汚す身ですが、今に至っています。

現在ではインターネットで国内外を問わず自分が希望する流派や道場を瞬時に調べることができて、場合によってはその様子までよく分かるようになっています。昔なら知りたくともその情報を知り得なかったことが、容易に知ることができるようになってきました。

当流は世界中に門下生がいるため、インターネットが普及したときは大変便利に感じたものです。例えばアルゼンチンの友人にエアメールで手紙を送った場合、返事が来るのに1ヶ月近く掛かったように思います。それが今ではほぼ瞬時に届きます。

安易さは時として熟慮を欠き、浅慮を招きます。兵法では拙速は好ましいものと捉えられることが多いですが、人生に於いてはそれ程でもありません。軽はずみ、軽率、などと言われます。機や節というものは往々にして複雑さの中から生まれます。

修行もそうですが、重要な局面に於いて合理性や効率、安易さによって求めると、結局はその程度のものしか得られないように思います。

これから武芸を志したい方々へ。

例えば当流の道場の情報はネット上では限りなく少なくなっていますが、これは求道者を試しているものとお考えいただければいいかもしれません。

自らに見合った流派を見つけ、よい先生に出逢い、適切な道場に通うことは本来至難の業です。労を惜しまず自らの足で求道する事の尊さを知っていただけたらと思います。

平成三十年睦月二十五日

不動庵 碧洲齋