当流では毎年、宗家が漢字4文字で何らかのテーマを掲げることになっています。
今年は「文殊慈心」でした。
数年前から疑問に感じていた諺がありました。
それが「三人寄れば文殊の知恵」です。
「文殊」とは言わずと知れた智慧を司る菩薩。禅宗の僧堂の入口にも安置されていることがあります。
元々、この文殊菩薩が司っている「智慧」は、仏教で言うところの「悟り」を拓くための智慧を指していたようですが、後になって学問などの一般的な知識までカバーするようになってきたとか。
中国では「三人集まれば諸葛亮のような知恵が出る」というような諺があるそうです。こちらはかなり誇張があっても有名人、つまり人の知恵という事ですね。これは理解できます。
「三人寄れば文殊の知恵」は凡人でも3人も集まればいいアイデアが出てくる、の意です。
しかしよくよく考えてみると凡人が3人どころか当世の学者が1万人集まっても到底、「文殊の智慧」に匹敵するものが出てくるとは思えません。(ちょっと仏教を崇拝しすぎでしょうか・笑)
どうして3人なのか考えてみたのですが・・・
1人:完全主観の相
2人:相対的観念の相
つまり、1人だと完全に主観におけるものの見方になってしまいます。しかも1人では視野も狭い。2人では相反する相対的観念が生まれるかも知れない。
しかし3人だったら半分に割れない上に客観的になる、ということです。
情報、データ、知識は善悪どちらにも用いられます。悪用されることは多い。しかし「智慧」は常に善用されることが大前提です。悪知恵という言葉がありますが、善知恵とは言いませんから、やはり知恵/智慧は本来善にのみ用いられるべきだという事が分かります。
だから3人である必要は、各々が持っている能力を以て相乗効果を生むと言うよりも、善用されるべきという戒めをも含めた諺ではないのかと思った次第。3人であることは、智慧を善用する安全装置という意味ではないかと思ったのでした。単に深読みしすぎかも知れませんが(笑)
平成三十年睦月九日
不動庵 碧洲齋