不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

大疑団という考え

大疑団というのはよく禅にて用いられる言葉ですが、「疑団」であれば一般的な単語だったかと思います。

字面通りで別段深遠なことではありません。「疑いの塊」です。

一応武芸者なので武芸を例に挙げます。

一つの技をマスターしたとき、大抵は二つのパターンに分けられます。

ひとつは「よし俺はこの技を理解したぞ」という者。努力の末に得たものに対して絶対に自信を持ちます。

もう一つは「この技をマスターしたが、本当にこれで良いのか」という者。マスターして後、まだそれに満足しない。

武芸というのは自信と猜疑心の微妙なさじ加減の上に成り立っていると言えます。

どちらが良いという話しではありません。多分それは人によりけりだと思います。

自信満々の人が試合で勝てば観衆は「ああやっぱり」と爽快ですし、逆に負けたら大番狂わせに沸くのも事実ではないでしょうか。

一方大疑団のツボにはまりまくっている人が勝てば「用心深い方が勝つ」と思わせ、負ければ「悩めば決断力が鈍る」と揶揄されます。

人は似合いの服を着るべきとでも言うのでしょうか。

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ただ私の経験上のことを申し上げます。

他を観察し洞察し研究し推測するという、能力をフルに活用する場合はやはり大疑団を持つに限ります。天才と呼ばれる人は別として、普通に考えて「これで良し」という自信ではどうしても目が曇り気味になります。

知ったつもり、分かったつもり、これが一番怖い。

自信の根幹に大疑団の解が基になっているのであればともかく、そうで無い場合は足下をすくわれやすい。そんな風に思っています。

技一つ、真理一つにしろ、究極の部分で「理解している人」などにはそう滅多にお目にかかれるものではありません。私だって「分かったつもり」を認識していて、真なるものを追っている状況ですから。

疑団の塊になる。疑団がありすぎて前にも後ろにも右にも左にも、上にも下にもつっかえている状態。それをちょっとした物の見方を変えることでこれがブレイクスルーできたら、一つ大きくなれます、多分。根拠のない自信、根拠が薄弱な自信は持つだけ有害です。

臆病なくらいによく見極めて慎重に前に進む、一つ一つを丁寧にこなす。得てして新たな発見や悟りと言うものはそんな何気ない日常の中にあるように思います。実際、武芸において私が「これだ」と思った多くは日常の中で認識したものが多い。

人生では決断を下さねばならぬ事は少なからずあると思いますが、そのためにも日々、大疑団を以て足下を固めたいところです。

平成二十九年神無月二十六日

不動庵 碧洲齋