不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

人としての品格

ここ最近はなかなかに息子とどこかに出かけることがなく。

傍から見ていても部活と塾と英会話教室を続けることは大変そうです。

昨日は息子の服などを買うために二人で自転車で草加市の中心街まで行きました。自転車で20分程度でしょうか。

その道中で久し振りに語りました。

学問をすること、これは人として重要な事です。

個々の人間として向上を目指すという点で重要ですし、次の世代に継承させるという点でも重要。膨大な量である人類の英知は、どこかの誰かが継いでくれるのではなく、各々ができることを継承させていかねばなりません。特に息子はIT関連で働きたいようです。しかも塾では留学経験のある先生から留学を強く勧められたそうです。曰く「将来外国に行く匂いがする」とか(笑)。そのためか何なのか、それ以後は留学に対してそれ程強い拒否感はなさそうです。今の息子の語学力なら、留学しても私の時よりも遥かに英語が達者であると思います。うらやましい。

話が逸れました。

ある国に息子と行った折、たまたまいわゆる成金という類の方と会う機会がありましたが、息子はそれがかなり印象的だったようです。人の卑しさというのか、そういうものに衝撃を受けたようです。私は息子に言いました。人としての品格は持って生まれたものもあるが、子供の時からの教育環境がほぼ一生を決定する。学問は努力すれば大人になった後、初老になってからもある程度向上できますが、30.40までずっと卑しい振る舞いをしていた人が努力しても、そうそう治せるものではなく。できないとは言いませんが。

卑しさはとてもクサい臭いがする、しかも自分では気付かないということには驚いていましたが、納得してくれたようです。

品格は体そのもの、学問は服のようなものだと言いました。例え服が安物でも、着ている人間が醸し出す品格でそれを補うことは十分に可能だが、その逆、さもしい人間が高級ブランドを身に付けていてもより一層、さもしく見えるだけ。貧しい人間は大金を得てもその貧しさをひけらかすだけだという事を言いましたが、思うところがあったようです。学問はとても重要ですが、品格あってのものであると言っておきました。学問だけでは卑しい金儲けのために奔走したり人を瞞すことに使いかねません。本来学問は人類だけでなく、森羅万象に益するために用いられるべき叡智であるべきだということは理解してくれたようです。「自分のためだけに使う学問」がどれだけ卑しいか、それが分かってくれただけで良しとしました。

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海外に行けば言葉も文化も違いますが、品格の香りは同じです。これは私の経験です。

高潔さと慈悲深さに裏打ちされた学問をして世を拓き、調和をもたらせば本物だと思っています。

随分偉そうに言ってしまいましたが、今の進捗をみるに息子は私などよりも遥かに大物になりそうな気がします。

平成二十九年水無月五日

不動庵 碧洲齋