昨日は所用があって新宿に行きましたが、結構時間があったため、以前から行ってみたかった場所に行きました。
天台宗大聖院というお寺です。
そこにはひとりの女性の墓所があります。
太田道灌は室町時代後期、築城と短歌の才に長けながら謀殺された悲劇の武将として良く知られていますが、彼がまだその才能を発揮する前のこと。
ある日道灌は所用のために領内を視察していましたが急に雨が降ってきました。
仕方ないので近くの貧しい農家に立寄り、蓑を借りようとしました。
しかし家から出てきた少女はそっと傍に咲いていた山吹の花を一輪手折り、道灌に差し出しただけでした。
道灌は激怒して「花ではない!蓑だ!」と怒鳴りましたが、少女は黙ったままでした。
カンカンになった道灌は雨に濡れながら屋敷に戻っていきました。
夜になって帰宅した道灌はずぶ濡れになりながら事の次第を家臣に話しました。すると文才に長けた1人の家臣が言いました。
「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」
驚いた道灌は己の粗野と無知を恥じ、以後、文武両道を心掛け、築城学、和歌の才能を開花させた武将として後世に知られるようになりました。
また道灌は以後、よく屋敷で歌会を開いた折にはその少女も招いたと言われています。
一説によると彼女の家族は京から落ち延びてきた由緒ある家柄だったとか。
太田道灌は1486年に刺客の槍によって命を落してしまいましたが、それを聞くと少女は(もうその時は成人したのでしょうか)出家して尼になり、新宿界隈に庵を建てて生涯太田道灌を弔ったとのこと。そしてその地にて亡くなり弔われました。
私はよく、この話を思い返します。とても示唆に富んだものと感じます。
太田道灌は領内に京より逃げ延びてきた貧しい農民がいることをどう思ったのか。
貧しい家の少女が文盲どころではなく、大変学識に優れたいたことを予想できなかったのか。
紅皿は何を托して道灌の人物を試したのか。
道灌はどうして貧しい農家の娘の返歌に驚きガラリと変わることができたのか。
なぜ道灌は身分を超えて少女を屋敷に招き、歌会を開いたのか。
などなど。
私たちは毎日「試されて」います。
人だけでなく神様や運命からかもしれませんが。
まさかと思うこと、まさかと思うとき、まさかと思う相手から、思いも寄らぬ理由で。
道灌は室町末期、世が乱れてきた事に道灌は憂いを持ったのでしょう、領内を視察したりして色々戦の準備に明け暮れていたのかも知れません。
でも乱れていたのは世の中でも領内でもなく、実は自分の心ではなかったかと。
粗野で草花も咲かぬ自分の心があることに気付けた。少女に気付かされた。
この少女紅皿が本来あるべき太田道灌の機を作ったと思います。
私は毎日、自分に起こるあらゆる事象について、自分の「紅皿」ではないか、自分にとっての「山吹」ではないかと、いつも気を張るよう努めています。
太田道灌に倣ってよくあちこちに駄句やヘボ短歌を上げていますが、実はそういう想いがあるからです。
周囲全てが自分にとっての紅皿や山吹と知れば、我が身は自ずから深く慎み想いを致し、文武を両輪の如く嗜むよう努力し、慈しみを持つようになると私は考えています。
山吹の
をとめのうたの
いと貴き
まことさだめの
啓かざるなし
平成二十九年皐月四日
不動庵 碧洲齋