不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

七五三

七五三、と言うと子供のお祝いを連想しますが、今朝たまたま息子の学校の連絡通知を見ていたらなかなかいいものを見つけました。

校内カウンセリングのお知らせでしたが、その中で「意思疎通は対面で7割、電話で5割、メールやLINEで3割」と言っていたところ。これは割に知られていることだとか書かれていましたが、私には初見でした。

なるほどこの割合には納得させられるものがあります。それにしても対面でも7割ですか。

人は「何」を言ったかよりも「どう」言ったかで判断すると言われます。そう考えるとこの割合の比率は納得できます。

対面-電話-文面の順でコミュ力が高いのが事実なら、その順で伝達内容の客観性も高まります。文面が一番客観的。言った言わないになりませんから。一方でメールで書くとなんか冷たい感じがすることが多いですね。そう考えると人とのコミュニケーションは言った言わない、会話の内容よりも繋がっていることそのものの方が重要なのかなとも思います。

当流の宗家が言っていたことですが、武芸における継承方法は三つ、書伝、口伝、体伝。書伝は秘密ではないものもありますが、よくお話しに出てくる秘密の巻物に表わされることがあります。ただし実際に素人が奥義の書伝を読んで、例え読めたとしてもほとんど意味がありません。キビシイ稽古の最後の1ピースの部分というのか、そういう部分だからです。意味が分かっても何のことやらサッパリ、という感じになるのではないでしょうか。とはいえ書かれたもの故に一番客観性を持つ継承方法とは言えます。

口伝は基本「ヒミツ」であることが多い。書いてあることよりも重要な事が多いのですが、書いていない理由はヒミツであることよりも行間の部分、文字にはできない感覚の部分に依存した伝承情報が多いからだと理解しています。また、「言う」場合は相手の頃合いを見て、その時に見合った言い方をするものです。聞き手は相手が「どう」言ったかを胸に刻み、自分の技量に暖かい血を流し込む、そんな感じでしょうか。口伝ではそれが重要なポイントと言えます。

体伝は宗家の造語だと思います(笑) 文字通りです、身体を通じて伝承させることの意。日常の稽古です。上記二つと決定的に異なるのはこの体伝は非言語ですから、他の動物も子育てに用いている方法です。禅仏教なども教化別伝と言いますから非言語による伝承の重要さは格別です。個人的にはこの体伝、結構気に入っていてよく使います。言葉には嘘がありますが、行動は嘘がつけません。対面でないとできない方法でありますが、そういう意味ではパーフェクトな伝達方法です。

昨今世の中はITの飛躍的発達のために通信能力が飛躍的に向上して文字を送る手間は大幅に短縮できるようになりましたが、書く側の文章能力の低下が何とも痛い(笑)文章能力は私も人のことは言えませんが、若い世代は特に心配です。楽に書ける反面、書く場合は慎重に慎重を期したいところです。

とはいえ書き物のみならず、会話能力も私たちは点検する必要がありそうです。スマホに代表されるような機械のために、どうも人と面と向って話すと言うことに対してぎこちなくなってきているように思います。何でも楽な方に流れて言ってしまうのは人の性ですが、それに逆らうのもまた人の性であると信じたいところです。

さればやって見せてさせてみせがいいかと言えば、現代人の悲しいところ、武芸をして痛感するのはあまりにも観察力のない人が多い。武技の技法の手順を一発で覚えることはもちろん、その行間に至るまで、何を言った、後輩たちが安全適正に稽古しているかなど、複眼的な見方ができないとだめです。テレビで言えば「相棒」の杉下右京警部のような鋭い観察眼は必要だなと思います。脳みそ筋肉では武芸者は務まりませんから。

七五三の割合と比べてしまいましたが、同じ事だと思います。

結局の所、武芸において書物に書かれている、誰々がどう言った、と言う情報への正しい判断は、はしっかりとした稽古あってのことです。そんな風に思っています。

平成二十九年睦月二十日

不動庵 碧洲齋