温故知新とは言わずと知れた論語の言葉。
「故きを温ねて新しきを知る」もしくは「故きを温めて新しきを知る」と読まれる。
稽古は「古にならう」から来ている。順序で言えば稽古があって、温故知新なのだろうか。
昔の人がどんなことを考えていたのか、どんな見方をしていたのか、書を読み、技を練ることでおぼろげながらにも分かることがある。それを意図していなくとも突然分かることもしばしば。頭と身体、共に修練したときほどよくうかがい知れる。
一つの流れがずっと昔から続き、今自分がまさにその最先端に居る。この事実が「温故知新と稽古」するに値するのではないかと思う。どれだけ深く昔に思いを馳せられるか、慮れるかで見えてくるものも違う。
読み物だけでは至ることは叶わず、技のみの鍛錬でも然り。
なるべく多くの側面を幾度も舐め、臭いを嗅ぐようにして学ぶことから古の先人たちの想いを知ることが叶うと、いつも思う。
「たくさん」ではなく、「深く」。「たくさん」だとしても「深い」ことが前提。
「一芸は万芸に通ず」私はこれを信条としている。八方美人は基本、深く極めることができないと思っている。普通の人間同士であれば、2倍3倍の能力が仮にあったとしても、二つ三つの芸事をしていれば凡人といくらも変わらず。時間の使い方などを工夫すれば、せいぜい二つ三つはできてもそれ以上ではないと、考えている。一つを一心にしている人にはやはり及ばない。
私などはかなりの非才な上に凡人だからあまり多くに手を出したがらない。ま、違う分野ならいいのかも知れないが。
話は逸れたが、それがあり、正しい心を以て初めて、今度は自分が古人として後世に残せる何かを創り上げられるのではないかと思う。
平成二十八年師走十二日
不動庵 碧洲齋